>  > 森友公文書改ざん問題を私物化させた魑魅魍魎〜悲劇のヒロインに見兼ねた善悪〜
森友公文書改ざん問題

森友公文書改ざん問題を私物化させた魑魅魍魎〜悲劇のヒロインに見兼ねた善悪〜

この記事のキーワード:
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

image0.jpeg

誰も言えないのなら私が言ってやる。

私は世間を騒がせた闇営業問題に始まり、携わったものの全ての矢面に立ってきた。

正義のためでも金のためでもない。それは私が頼まれ、やると決めたからだ。そもそも闇営業問題は、写真週刊誌フライデーが動き出し、当時フライデーに契約記者として籍があった人間に芸人の動向を頼まれたとき、私はたまたまテレ朝系の生番組に出演していので、番組ディレクターを呼び、全てを話してそれを阻止しようと試みたのだ。まさか後に、闇営業問題が社会現象を起こすことになるとは考えれなかった某ディレクターは、それを適当に処理してしまったのである。

その際に、真摯に私の話しに耳を傾けていれば、後の闇営業問題は世に出ることはなかった可能性は多いにあった。言わずもがなだが、いつの世もたらればを論じるのは夢想でしかない。

ただ、闇営業問題に限らず、ことの真相を知っているのは私しかいない、という問題が存在しているのは、何も悪い冗談などではない。

先に言えば、私には右も左も全く関係がない。

そんなものはどちらでも良い。あるのは、私の周囲の人間たちの状況。それだけである。人の意見など、立ち位置で大きく異なるのが世の常だ。

だったら、私は私が大事に思う人間や私を信頼して頼ってきた人間のことを考える。

その結果はさまざまで、こちらも人間だ。

利用するだけしやがってと思うこともあるが、それを言い訳にするようなことは間違ってもしない。

最終的には、人のためではなく、自分自身で決めて決断した、と言い聞かせているからだ。

それはそうだろう、と言うか、そうでなくてはいけない。なぜならば、今生きている人生は誰の人生なのだ。良い結果も悪い結果も含めて、自分自身の人生ではないか。耳障りの良い、何かのため、誰かのため、と言うのは、自分自身の感情論であって、本来、全ての責任を取る覚悟を持つ人間は、そんなことを口にはしない。それが信念というものではないだろうか。

はっきりとさせておきたいことは、森友公文書改ざん問題は誰の指示があったとか以前に、起きてはならなかったことではないのか。

そこをえらく勘違いさせているのではないか、と思う記事が、一部の界隈で物議を醸している。言うまでもなく週刊文春の記事である。

森友学園との土地取引を巡る公文書改ざん事件で、18年3月7日に自ら命を絶った財務省近畿財務局の赤木俊夫氏だが、本当にそんなにもデリケートに扱われなくてはならない人物なのだろうか。私は申し訳ないが、否である。

何故ならば、財務省に限らず、組織に殉ずるとはそういうものだと思うからだ。少なくとも私が過去に所属した組織とは、そうだった。

仮にだ、その時に私が自ら命を絶とうと考えたとしよう。組織に籍を置く以上、1人の日本男児として、間違っても組織のせいなどとは言うような真似はしない。マスコミが躍起になって求めた赤木氏の遺書みたいに、自分本意の苦悩などを遺すようなことはしないだろう。

嫌なならば、それが法に触れる、若しくは己れの信念を曲げると言うのならば、やらないと小学生でも考えれば理解できる選択肢があったからだ。

逆に組織に殉ずるならば、その境界線を超えたとしても、私の命を賭してでも責任をとって見せるだろう。

その姿は、たとえ家族に理解されなくても構わない。自分自身が自分自身に恥じなければ、それで良いのだ。理解を求めるならば、しっかりとしない自分自身が悪いのだ。簡単ではないか。

では、財務省の役員全員が公文書改ざんに関わっているのか、違うだろう。お鉢が回ってきただけのことで、私ならば、生きて名誉挽回をしてみせる。

仮に所属していた組織を敵に回すと決めたとしたなら、間違っても憐憫の情に訴えかけるようなことはしない。

何故ならば単純である。男だからだ。そこに強い弱いも関係はない。

あるのは、自分自身だけだ。遺書に書かれた人物らが、言い訳もできぬほど悪なのか。違うだろう。彼らにも彼らの言い分があったはずだ。

それを遺書による一部の世論によって、言い訳すらできない状況に追い詰められたとしよう。

申し訳ないが私だったら、死んでまで迷惑をかけるのか好き勝手に言いやがって、と怨みに思うことはあっても、同情などはしない。

そこに同情してくれた人たちが存在したのだ。

遺族ならば、感謝こそすれ、間違っても、それを漫画化にしたり、騒ぎたてたりはするべきではないのではないか。

そもそも、本当に遺族は悲劇のヒロインなのか。考えればわからないか。生きていれば、犯罪者だぞ。死ねば被害者なのか。

もっと言及すれば、赤木氏が毅然と不正行為を断っていれば、改善問題も起きなかった可能性すらなかったのか。私はあったと思う。

それでも味方であろうとしてくれた人物らがいれば、私ならば心底感謝するだろう。

週刊文春で、赤木氏の遺族にまつわる記事が掲載された。記者である以上、一方を聞いて沙汰してはならないというのは鉄則である。赤木氏の改ざんをモチーフにした作品を制作したい、という話しがあれば、普通に考えてだ。私ならば、そっとしておいて欲しい、以外のことは口にしないだろう。何故ならば、理由ではない。罪を犯しているからだ。それを、遺族サイドから、ここは違う、あれは違う、果ては、タイトルまでかえろ!と言ってくれば、どうだろうか。

当たり前にフィクション。つまりは作品として、考えようとしないか。

当たり前ではないか。タイトルの変更の要望だぞ。そんなものは作品の乗っ取りではないか。

現にモチーフとする話題が存在しているのは、遺族らが本まで出版したり、遺書まで公開しているのだ。

それをメディアが取り上げてきたのだ。誰だって知っていることだ。そこをモチーフにされたくなければ、そんな事実がハナからなければ良いだけで、世間に出回る報道を止めることの出来ない以上、それに似通った作品が登場したら全ての意向を尊重する義務があるのか。ましてやそれを貶すのではなく、美化までしてくれているのだ。どこまで寄り添えば良いのか。

それでも、作品を手がけたプロデューサーは最期の最期まで律儀に寄り添って見せようとしている。私自身、頭に来たのは、そのプロデューサーも、遺族の窓口という立場で前にたった相澤氏も知っているからだ。

相澤氏とは一度、私が誘い食事をしただけだが、森友問題にぶつかるまで、鬱を患っており、NHKを2年間休暇していた、と話していた。

当時勤めていた新聞社も、籍をおき、〇〇新聞の相澤です!と言えば、給与が発生する状態になっていて、一度も籍を置く新聞社の仕事はしたことがないと話していた。

週刊文春では、東京新聞の望月記者のご家族のことまで触れていたが、私は分別があるのでそこまでプライベートのことまでは触れない。

ただ、私ははっきり言うが、そこで憐れみを感じ、少しでも仕事になればと出版社の社長を紹介し、大手週刊誌の肩書きのある人物を紹介する手筈を整えた。それは私のお節介である。そのお節介に対して、相澤氏は見事なくらい恩義にも感じない態度を振る舞ったので、はっきりと伝え、交流することを辞めた。

ただそれだけたが、悪者にされているプロデューサーは違った。謝ることはしっかりと謝り、相手を労れる人間である。そのためには、国を敵に回しても戦うという姿勢を見せれる気骨の人物だ。

謝罪すれば記事にされ、望月記者はなぜこないと言われ、果ては日刊スパにて、相澤氏は望月記者に、謝れば赤木氏のご遺族も許してくれると呼びかけている。

先に、週刊文春で名指しで、裏切りなどと書かれ、先だってはお子さんたちのことまで罵るようなことを書かれているのだ。それを掲載させる判断を下した人間の神経も相当、疑うが、だったら私が本気で一度相手してやろうかとの想いも脳裏を駆け巡ったほどだ。張り込みで駐禁やスピード違反。敷地内の許可なく侵入などはしていないだろうな。

ましてや日刊スパの相澤氏の記事では、ドラマの中で、「文潮」と揶揄され、文春と新潮が怒ってる旨の記事があったが、それは一部の話しだ。

今回の相澤氏や遺族の記事の早刷りを送ってきてくれたのは、そこに在籍している人物らだぞ。

それも1人2人ではない。あたからも週刊文春と週刊新潮が怒っているような記載には、日刊スパの編集者も何を考えているのか、と頭を捻らずにはおれなかった。

望月記者が在籍している東京新聞。つまりは、中日新聞にしてもそうだ。そこにも私は信頼できる友人がおり、その友人らは相澤氏らに対して、ひどく憤っていた。それはそうだろう。同僚をコケにされて面白い人間がいるか。

挙げ句の果てには、関係者にしか送られないURLまでスクリーンショットで掲載させているのだ。

記者として超えてはないない一線と言うのが確かにあって、それは信頼関係の上でこそ成立するのだ。その判断は各々がすれば良いことだが、いくら信憑性を高めるためとはいえ、それを記載しては記者以前、人として私は問題だと思うぞ。

挙げ句に何も知らないキャストたちに罪はない、などとは、どの口が言っているのだ。

そうしたことを論じること自体が、関係のない人間らまで巻き込んでしまっていることを理解すらできないのだろうか。

はっきり言ってやる。劇中の週刊誌のゲラの参考資料を用意したのは、他ではない私だ。

口に出せないこともある。外野が好き勝手に言っているのとは訳が違う。そうした経緯があったからこそ、私は私の判断で相澤氏を食事に誘ったのだ。

日頃のよしみで、私は記事にするのを見送ってもらったのも媒体、週刊誌も1紙や2紙ではない。

そうまでした裏側には、制作の苦労を私なりに知っているからだ。一つの作品を作るのに200人近くの人たちが、金ではない場所で不眠不休で働いているのだ。その姿や想いを、遺族という立場。その依頼と言うだけで、そこまでも邪魔できるのか。私には申し訳ないができない。

そこには、書き出しにも触れたように、右も左もないのだ。

文春の記事が本当だったのなら、と訳の分からないことを言ってネタにしているクソみたいな人種も存在するが、論じるまでもなく書き手なら、記者ならば、取材すれば良いではないのか。

その当たり前の術すらとれない時点で、記者として、書き手として失格です、と自ら宣伝しているようなものだ。そんなものはジャーナリズムでもなんでもない。TVを観ていれば誰でも言えることだ。

もう一度いう。国が悪いと言うならば、実行犯は悪くないのか。それが運命だったのか。

漫画化にしてる時点で、世間は人の死すらも、親族が金儲けに使っている、と捉えたられとしても不思議ではないのではないか。

もう一度言う。作品作りとは本当に地味で過酷な作業の繰り返しだ。それを簡単に邪魔すると言うのならば、私は相手の顔色などは窺わないし、自分の言葉で、誰にだってはっきりとモノを言うことくらいはできる人間でありたいと思っている。

(小説家・沖田臥竜)