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男はなぜ底辺から夢へと辿りつけたのか

沖田臥竜流自己啓発ー男はなぜ底辺から夢へと辿りつけたのかー

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どんなことでも続けて初めて分かることがある。何事もこの続けるということは、一見簡単そうに見えて実は難しいのだ。なぜならだそう簡単には、成果が見えないからだ。

例えば、給料がしっかりと保証され、仕事さえ続けていれば、とりあえずは暮らしていけるというのなら、人間続けていくのはそうそう難しいことではない。だが、そうではない場合、続けるということは、とてつもなく困難として、時にのしかかってくるのである。

まず対峙するのは、己の内面だ。

ーやめとけ、やめとけ、そんなことをしてもどうせ無駄だー

そう囁いてくるのである。そう続けるというのは、無駄の積み重ねでもあるのだ。そして無駄の積み重ねというのは、精神的にも肉体的にも非常にストレスや疲労困憊を招き、自身を追い込んでくるものなのである。

それに輪をかけて追い討ちのかけてくるのが周囲の声だ。世間とは結果である。無駄なことを続けていても、誰も応援などはしてくれない。よほど分かりやすい形で、与えられた仕事の中で人よりも頑張っている方が、まだ「頑張ってるね」と言ってもらえるだろう。それはそれでとても大切なことなのだが、夢を本当に実現させるにはそれだけではまず届かない。当たり前ではないか。

ただ就職した先、バイト先でも良い。

そこで頑張っているだけで夢まで叶えてしまっては、世の中は成功者で溢れかえってしまわないか。夢みたいなものは数多くの犠牲の上で初めて叶うものであって、当たり前のことを当たり前に一生懸命にやっているくらいなら、小さな職場では認められることがあったとしても、世間が振り向いてくれるこてはない。それが良いとか悪いとかの問題ではなく、それが現実なのだ。

それらを乗り越えて無駄な努力を続けたとしよう。それで何かを成し遂げれるかと言えば、そうでもない。いくら続けることが大切だと言っても、それはあくまでベースであって、その過程で進歩がなければ当然、無駄な努力は無駄なままである。

まず第一に続けるということ大前提にあって、その上で創意工夫しながら吸収し、常にアップデートさせていかなければならないのだ。

そして、とにかく断るな、である。夢に向かって努力を重ねていく過程の中には、実力に伴わない案件があっても、日々の忙しさや自身の無能さを理由に断ってはならない。

これはある意味、大切なことで、人間はすぐに目先に翻弄され、出来る出来ないを判断してしまいがちなのである。

それがチャンスに変わる可能性が含まれいるとも分からずに、ごめん...忙しいねん...と言った経験はないだろうか。

断るということは、つまりそこでチャンスの芽を摘んでしまっているのである。

無理だからこそ、舞い込んでくるのである。

これはチャンスですよ〜みたいな案件は、全てを対象としているのだ。結果的にどちらが本当の意味で、チャンスとなるか。それは間違いなく、無理な状態で舞い込んでくる話だ。

そこで尋常じゃない努力をして見せるのだ。

仮に結果は伴わなくとも、相手はどこかで評価してくれ、また話が舞い込んできやすいルートが構築されるのだ。

それがチャンスへと繋がっていくのである。

人生にそうそう無理だと決めつける日は少ない。今のニーズはフットワークの良さこそが必要不可欠なのである。

最後に出会い。人はすぐに相手を見て、この人は自分を引き上げてくれるかどうか。つまりバリューで判断してしまう。それは仕方ないことかもしれないが、いくら凄い人材と触れ合っても、その出会いを活かせなければ、成果など生まれることはない。

出会いを活かしたければ、金ではない。

相手のために、自分の用事や仕事よりも優先して、相手のために汗をかいてみせるのだ。

人が忙しいと断ることを、頼まれればそれ以上の結果で返すように全力で取り組むのである。

そうすれば単純に考えても、こいつは使えるではないか、とならないか。そこに次のチャンスが生まれ、出会いというものが活きてくるのである。

そこまでやってぞんざいに扱われれば、遠慮はいらない。後先などは考えなくてもよい。

思う存分、いい加減にしろよ!と叫べばよいのだ。

ただ、それは最後の最後までとっておかなくてはならない。なぜならば、そこは損得の問題ではなくメンツやプライドの問題になってくるからだ。

私は頼まれればまず断らない。相談されれば親身になる。目先に流されない。その上でやるべきことは尋常じゃないほど動き続けてきた。

誰のためにではない。それは究極、自分のためだと言い聞かせている。本当はそうじゃなくとも、自分のためだと言い聞かせなければ、ありきたりの愚痴になるからだ。

実際、私は特段、物欲もないので、もうすこしのんびりと生きることもできるかもしれない。

ただ1人で生きているわけではないし、のんびり生きていて誰かを助けなければならない場面に遭遇して、助けることができるか。

ーごめん。無理やわー

大切な人たちが困っている時に、ごめん無理やわ、と口にするくらいなら、私は死んだほうがマシだと思っている。

そのために、もう人のために頑張ってる、というようなことは口にはしない。

想いを口にするくらいなら、オレはオレのためにやっている!と言い切って、陰で人のために生きた方が良くないか。

それを繰り返していれば、底辺からでも這い上がることができる。それは私が自分の人生を賭けて、さまざまなことを犠牲にしてきて証明してきていると思っている。

哀れだった。25歳のとき、自分自身の人生を振り返ったときに、かわいそうに思えた。だからこそ、奮闘するとペンを握り立ち上がったのだ。

成功している側面が仮に私にあるとすれば、自分のことはどうでも良くても、自分のためにやってると力強く言い聞かせて生きているからではないだろうか。

(文・沖田臥竜)