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70年の歴史に幕を閉じた【尼崎】

70年の歴史に幕【尼崎】ーその背景にあったものとはー(文・沖田臥竜)

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それはドラマの撮影で使わせてもらったロケ地へお礼のために回っていたときのこと。まだ緊急事態宣言の最中だった。

神戸方面から国道2号線を出屋敷線へと右折した私は、信じられない光景を目の当たりにすることになる。同時に、これは流石に不味いだろうーと、言葉に出さずにはいれなかった。

開いているのである。かんなみ新地と呼ばれる風俗街がわ営業していたのだ。

そして案の定、その危惧は的中することとなり、緊急事態宣言解除後、かんなみ新地は70年の歴史に幕を下ろすことになったのであった。

その一報が知り合いの記者から入り、その記者の依頼で、取材のためにかんなみ新地へ向かってみた。するとかんなみ新地には、既にパトカーが停車しており、制服を着た警察官が警戒にあたっていたのだった。

かんなみ新地は飲食店の名目で、ある意味これまで堂々と売春行為を行ってきていた。

私は後に過去の記事を掲載するが、この地域について少しばかり詳しかったりする。

料金システムは15分1万円。その内訳は、スカウトなどが間に入れば変わるが、基本的に女の子と店側が折半。その内、呼び込みのおばちゃんが客1人につき、千円が入るようになっている。

全盛期のピーク時の正月などは、他府県から若者が観光にくるほどで、人気の女の子になれば、1日に65本という本数を叩き出していたりした。

それはもう、今となっては遠い昔のことだった...。

尼崎のスケベな男どもの聖域ーかんなみ新地ー (2017.12.15)

『ー前科8つ目は『食品衛生法違反』で御用!罰金40万円なりー


私の8つを数える前科のなかには、「食品衛生法違反」というのがある。
私をパクッた暴力の刑事いわく「ヤクザをこんな罪名でパクんのはじめてやな〜」だったらパクんな!であるのだが、「だって、署長がうるさいねんもん〜」トホホであるが、それくらい当時としては珍しい事案だった。


さて、事の顛末であるのだが、、、。


 まだ私がヤクザとして駆け出しの時代の話である。私の地元尼崎には万札一枚で堂々と「本チャン」をやらしてくださる、いわゆる"新地"が存在する。スケベな男共には、大変ありがたい聖域となっている。
 しかも、お相手して下さる女性は、年齢詐称のおばはんや妖怪?などではなく、レベルの高い女の子ばかり。そのピンク街の週末の凄まじさといったら、ちょっとしたお祭り以上の騒ぎの様相を呈しており、県外からもスケベ共が大挙して観光がてら抜きにくるほどだった。


 恐喝以外ろくなシノギをもっていなかった当時の私は、その光景を見つつアホなコトをアホな頭で閃いてしまった。


 ここで屋台でもやればウハウハになり、直参だってなれるんじゃなかろうか(なれる訳なかろうが)と。


 早速、当時乗っていたクラウンを売りさばき、屋台用の軽自動車を安値でたたいて買い上げ、商売を始めるコトにしたのだった。
選んだネタは、キャベツに卵をからめてお好み風に焼く「一銭焼き」。当然、電気が必要となったので、近くのラーメン屋のおっちゃんに頼み込むと、タダで電気を使わせてもらえるコトができた。
だが実際、笑けてしまうくらいあまりにも売れなさ過ぎて、当初予定していたウハウハも、それで直参に駆け上がるコトもできなかったのだ。
それでも雨の日も風の日も当番明けの日も休まず無許可営業を続けたおかげで、様々な人間模様を垣間見るコトができた。


 脇道から顔をマスクで隠しそそくさと店へと入る女の子。
 お金を貯めてアメリカに留学するといいつつ、店がはねれば稼いだ金でホストクラブに通う娘さん。
 ゴキブリが店に出たからと言ってヤクザの私にゴキブリ退治をさせやがった遣り手ババア。
 ここに相談に行けと言われたと言って、族車で営業妨害をしに来た男の子。
 夜中にマヨネーズを差し入れにきてくれた女の子もいた。


 たった7ヶ月(うち6ヶ月間は所轄の暴力(警察)に内偵を入れられていた事がのちに発覚)だったが、そこで知りあった人達の中には、いまだに良い付き合いをしている人達もいる。


願わくば、この先もそんな街の灯を絶やさずにやってほしいと私は思う。スケベ心からだけではない(て言うか私は風俗にいかないし、何故だか呼び込みのオババどもに出入り禁止にされていた)。


世の中がすべて明るく、眩しい場所ばかりになってしまったら私のような人間には少々息苦しいのだ。そもそも裏があるからこそ、世の中には表があるのではあるまいか......。


 しかし全く笑えなかったが、私をパクったあと、ウラをとるために刑事が行った先がスーパーマーケットだったのだ。私の供述通りキャベツが本当に売られているか調べに行ったのだが、そりゃあ売っとるに決まってるだろうがである。』

これは今から4年前にニュースサイトr-zoneで私が書いたコラムである。

笑ってしまうの儲からなかったことだけではないのだが、それはさておき...。

実際、三十数店舗が営業するこの地域にはさまざまな人間模様があった。

組合はあっても、1店舗1店舗オーナーは違っており、中には数店舗経営しているやり手ババアも存在していたが、各店舗の家賃は当時で月30万。長屋の二階建てが月30万と言われれば、誰しもが腰を抜かすだろうが、それだけの需要が十分にあったのは事実だ。

非合法ながらも店さえ借りることができれば、暗黙の了解と言うか、堂々と買収を行えるのである。

新地街には新地街のルールもあって、不義理をして辞めた女の子は辞めて3か月間。他所の店で働けないなど、私はそれすらも頼まれて当時、私の顔でぶち破ったこともあるが、確かに決まり事は存在していた。それさえしっかりと守っていれば、公認的に営業することができたのだ。

それがなぜ今回、70年の歴史に幕を下ろすことになったのか。それは圧倒的に住民からの苦情にあった。コロナ禍の真っ最中に、人が集まってきてみろ。近隣とすれば迷惑でしかない。結果、所轄には多くの苦情が寄せられることとなり、尼崎南署と尼崎市が一緒に立ち上がったのだ。

そして市側は、これまでの「あくまで飲食店」という建前を許さない方針を決めたのである。

これもコロナ禍が産んだ悲劇によるものかどうかは分からない。なぜならば、ダメなものはダメだからだ。だが、そこにも営みや文化が存在していたのも事実だろう。

70年の灯が尼崎から、また一つ消えていったのであった。

(文・沖田臥竜)