>  > Netflixにてあの感動が蘇る「ヤクザと家族The Family」5月7日(金)より配信

Netflixにてあの感動が蘇る「ヤクザと家族The Family」5月7日(金)より配信

この記事のキーワード:
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

緊急事態宣言というものは一体何なのだろうか。何ヶ月もかけ、どれだけ入念に準備しても、緊急事態宣言の影響で映画館が休館させられたり、ドラマや映画の撮影が延期になったり...。何のための誰のための緊急事態なのか。世の中を見ていると全く分からなくなってきた。私が去年夏から準備していたTVドラマの撮影も延期になった。もちろん悔しいのはみんな同じだが、批難や誤解が殺到し、時に摩擦を生み出したりしている。元来、そうした摩擦や軋轢の中にこそ、作品作りに対する情熱が育まれていく側面もあると考えるのだが、緊急事態宣言の意味だけは到底、理解ができない。

事情はコロナの感染拡大を防止するためだと言うことは、無論、バカでも理解できるだろう。
だが、問題は本質を誰が理解して、指揮をふるっているのか、というところだ。

そこまで緊急事態と言うのならば、何故、何もかも止めないのだ。前例がない事態だからこそ、緊急事態のはずではないか。それなのにどうだ。身勝手な判断で、業種によっては無茶苦茶な要請と言う名の強制を余儀なくされ、自粛と言う名前の不条理に晒されている。で、どうだ。効果は出たのだろうな。解除や延長だとのたうち回る前に、今回はゴールデンウィークの感染拡大を防ぐ目的だったのだろう。業種によっては致命的な自粛を強制させて、はっきりとした根拠のある成果を上げたのだろうな。

去年、コロナ禍により、日本は大きな教訓を残した筈だ。その中で、考えなければならないことは何だったのか。
それは、国民の平等ではなかったのか。
何故、業種によって、緊急事態宣言の影響を受ける職業と受けない職業があるのだ。
刑務所ではクラスターが起きても社会から拘置所経由で移送しているが、映画館でクラスターが起きたのか。ドラマや映画の撮影が密集すると言うのなら、警察官はどうなのだ。
大きな事件や事故が起きれば、大勢の警察官を動員していないのか。その状態は、国家の言うところの密集ではないのだな。極端なことを言うのは、前例のないものに対し、基準が曖昧な取り決めで、極端な措置を強制させるからだ。
それも現法の緊急事態宣言において、日本には強制力がないと言いつつ、実際は強制させているではないか。
例えば、TV局がドラマの撮影を自粛する、と決めたとしよう。それは結果として強制力を持ってしまっていないのか。医療の逼迫状態にしても、コロナ禍となって以来、ずっと言っているが、それに対する措置は追い付かず、医師という職業だけが尊いのか。医師の見解だけが全てなのか。

私は自分のことは自分で理解できているので、人に誤解されることに一切、何も感じない。だからこそはっきりと言うが、その医師会はこの一年でどれだけ医学の進歩を成し遂げたのだ。
医師会にだけの見解を聞いて、日本と言う国が回るのなら、日本という国を全て病院にしたらどうなのだ。

医療が逼迫しています!とこの一年。何の疑いもなく、もう随分と使い古された言葉を連呼している時点で、脳みそを動かしているのかとしか私は思えない。だったらそれを回避する措置を何故、一年。最悪のケースを想定して考えなかったのだ。まず問題はそこだろう。医師会もダメだ!ダメだ!と1年間言い続けてダメになっていないのだ。だったら、もっと国に対して、仮施設の要請やもっと具体案を出すべきではないのか。オリンピックのために建てられた新国立競技場はずっとあいているぞ。
日頃から横柄な医者もいるのだ。

ーこんな時くらい働かないでどうする!ーと骨のある言葉を言える人間はいないのか。


前置きが長くなった。
5月7日よりNetflixにて「ヤクザと家族The Family」が配信される。語り尽くされた番宣をしてもつまらいので、私が嫌味の一つでも言ってやるか。

ーオレはそれを16.5畳のリビングで、75インチのTVで観てやるぞー

不条理の中で、それでも人間は生きていこうとする。だからこそ、そこにドラマが生まれるのではないか。もうこの映画については、私は語り尽くしてきた。これを仮にヤクザ映画とするならば、映画「ヤクザと家族」に関わった全員が、最高峰の金字塔を打ち立てたと言えるだろう。

「あの映画よかったね。泣けたね。感動したね」

と、すぐに忘れ去られる映画ではない。人の胸を鷲掴みにし、涙さす物語とは何かと言うことを、この作品が全てで証明している。


初めて言う。実は私は3時間半の編集作業から、ずっと手伝っていたりする。だから何十回も観ている。今となれば、だからこそこの映画には様々な思い出があり、そこで一切妥協しなかったから、私の未来が新たな広がりを見せた。

私が主人公の山本のようになっていてもおかしくなかった。だから、細部にまで拘り続けた。
タバコの銘柄のセブンスターや車のナンバーに至るまで、全てのディテールに拘り続けた。

それだけ拘りたい雰囲気が、ヤクザと家族の現場にはあったのだ。誰しもが、その時間。この映画に全てを賭けていた。だからこそ、ヤクザと家族の現場で知り合い、未だに仲良く付き合いをしている人間は、10人を超えている。

締めはありきたりの言葉の方がよいだろう。
こんな世の中だ。1人でも多くの人々に観て欲しい。


(文・沖田臥竜)