そしてセバスは再び塀の中へ
いつもとまったく変わらない塀の中。工場内には、ミシンを稼働させているダダダダダッという音と、文政の鼻歌だけが流れていた。
それは、まったくもって変わらない光景だった。
私は、アクビを噛み締めながら、ずっと担当台を眺めていた。
基本、文政は刑務所の作業をしないが、私もしない。たいがいは小説を書いていた。
そんな私が珍しくも担当台に目を向けていたのは、セバスチャンが、担当台に立つマリオに向かい、泣きべそをかきながら、なにかを必死に訴えていたからだった。
2時間前に突然、警察の調べが入ったセバスチャンは、工場に戻ってきてから、かれこれ30分はこの調子だった。
セバスチャンの泣き顔を見ながら、私は、シャバに残してきた新たな事件が発覚してしまい、警察署へと引き戻されるのだろうなか、と思っていた。
セバスチャンはマリオに肩を2回ほど叩かれて、肩を落としながら、自分の作業台に戻っていった。
セバスチャンが作業台に腰を降ろしたのを確認すると、マリオもさっと担当台から飛び降り、私の前までやってきたのだった。
「沖田、書いてるとこ悪いな。ペン止められるか?」
マリオに止められなくとも、ペンは一向に走る気配を見せていない。
「どないしましてん、オヤジ? セバスチャン、引き戻しされますの?」
先ほどからずっと担当台の風景を眺めていたので、セバスチャンのことだと察しがついた。
「どうやろな、本人がゆうには、まだわからんらしいわ。でも、ひどい落ち込みようやから、ちょっと、セバスチャンの話聞いて励ましたってくれへんか?」
どうせ、作業は無論のこと、本業?の小説も全然進んでいなかったので、「よろしいでっせ」とこたえ、原稿机と化した作業台を離れた。
私はセバスチャンに尋ねた。
「どうやってん、セバスチャン。やっぱり引き戻しされそうなんか?」
そう語りかけた私に、セバスチャンは、憔悴しきった顔を向けた。
セバスチャンは、ラテンの血が流れているのだが、日系三世なので日本語も流暢に話すことができる。というよりも、彼は何ヶ国語でも流暢に操ることができ、その数でいえば、5ヶ国を操るマリオよりも上回る、と定評があった。
顔も、どちらかというと、日本式になっている。
「多分そうなると思います......」
憔悴しきった顔を更に枯れ果てさせながら、セバスチャンは口を開いた。
「何がめくれてん?」
「実は......」
そこからのセバスチャンの話は、私の推測を遥かに凌ぐ、にわかには信じがたいものだった。
セバスチャンがいうには、彼は世界何ヶ国をまたぐ覚醒剤の密売グループを率いていたらしく、その組織のリーダーとして、莫大な覚醒剤を密輸してきたという。
何ヶ国語も流暢に操れる彼は、どの取り引きでも相手方との交渉に自ら当たっていたらしい。
そんな中で、彼のラテンの血が騒いだのだろうか、相手を殺してしまえば、もっともうかるのではないかという閃きが芽生えたというのだ。
ある日、彼は新宿で大きな取り引きを行うことになった。
相手は、中国系マフィア。全員が密入国して日本へとやってきていることは確認済みであった。
つまり、死体があがったところで身元が判明する身体ではない。セバスチャンは、そこを突いたのだという。
そして、現場に大金を持って現れた中国人全員を皆殺しにしたのだと。
「でも、セバスチャン、いくら身元が不明な中国人でも、皆殺しにしたら、ごっつい騒ぎになるんとちゃうんか?」
そんな映画さながらの殺しが実際あるわけがないと思いながら、セバスチャンをいぶかしみ尋ねた。
「事件になりません。死体に一体でも日本人が混じっていれば日本の警察は総力を挙げて捜査しますが、身元不明の外国人、とくに中国人などの場合は、よほどの理由がない限り、簡単に処理します」
うそつけっ!と突っ込みを入れようかと思ったのだが、セバスチャンの怯えようが尋常ではなかったので、私は「そ、そうなん!?」という曖昧な答え方にとどめておいた。
「でも、それがなんで今頃になってめくれかけてんねん? 身元不明の中国人やったら、ヒネも適当にしか捜査せんのやろ?」
「そうだったんですが、その時の部下の2人がその事件で使用した拳銃を持って逮捕されたというんのです。事件後すぐにブラジルへと帰国させていたのですが、私が日本で逮捕され刑務所にいることを知り、わざわざ私に会いにこようとしたというのです」
セバスチャンがいうには、その2人は日本語を喋ることができず、私たちが務めていた大阪刑務所の住所とセバスチャンの写真だけを頼りに、密入国してきたのだという。なんたるボス想いの部下であろうか。でもせめてチャカだけは置いてくるべきではなかったか。とくに、前のあるチャカならなおさらではないか。
結局、そこを職務質問されてしまって、逮捕されてしまっている。
「沖田さん、あなたは力のあるマフィアと聞きました。どうしたらいいですか? このままだと私は死刑になるかもしれません......」
私に死刑をもみ消すような力はまったくない。そもそもそんな力があるのなら、こんな塀の中にいるわけがない。
とにかく「頑張れ!」と言ってやることしか私にはできなかった。
その言葉をセバスチャンは、まったく聞いていなかったのか、もう一度「死刑になるかもしれない......」と言いながら、頭を抱えこんだのだった。
「オヤジ、オヤジもセバスチャンの話きいたでしょう? ただのウソでしょアレ?」
セバスチャンとの会話を済ませた後、私は担当台に立つマリオに話しかけていた。マリオも私の意見に同意するものだと思っていたのだが、マリオは意外にもセバスチャンの話を信じているようなフシがどこかにあった。
「いや、わからんぞ。ここだけの話やけど、アイツ、ドル札でえらい領置金持っとんねん」
「なんぼ持ってますの!?」
「日本円で約1億や」
ひぇーである。
当時の大阪刑務所に服役中の者の中で、セバスチャンが一番、領置金が多かったらしい。
そりゃ、3000人から収容している刑務所だ。1億円くらい持っているクラスのヤクザや犯罪者もザラにいたであろうが、わざわざ刑務所でそんな大金を眠らせている懲役はまずいない。
なぜなら、そんな大金を塀の中では必要としないからだ。
どれだけ、派手な使い方をしたとしても、月に2万がせいぜいであろう。年間、24万円もあれば十分すぎる。
だいたいの懲役は、1ヶ月1万円と計算しているのだ。間違っても、1億など必要としない。
それなのに、セバスチャンは1億円もの現金を刑務所に持ってきているというのだ。
もしかしたら、あながちセバスチャンの話も本当か、と思いながら、マリオと私は顔を見合わせ、同時に頭を抱え込むセバスチャンに視線を向けていた。
結果から言うと、セバスチャンは引き戻されなかった。
2週間は、毎日、警察がやってきて、任意で事情を聞いていた。というよりも、「お前は死刑じゃ!」と言い続けていたらしいのだが、肝心の再逮捕はされず、それどころかいつの間にか取り調べもなくなっていた。立件にまで持っていける決め手がなかったのだろう。
そして、数年後、セバスチャンは私より後にシャバの土を踏んでいる。それを報せてきたのは、これまたシャバに戻ってきた文政だった。
「今な、関西にシャブ流しとんの誰やと思う?」
セバスチャンのことなどすっかり忘れていた私は、電話の向こうの文政に応えた。
「なんや、兄弟かいな?」
「ちゃうがな。ワシももちろん凄いけど、そやないねん。兄弟どうせ覚えてへんやろな、大刑おった時にセバスチャンておったやろ。あのブラジルの日系三世の。アイツや。アイツがばら撒いとんねん。惜しいことしたの。あの時、ワシか兄弟の舎弟にしとくべきやったの」
やはりセバスチャンの言うことは本当だったのか。
セバスチャンは、こんなことも私に言っていた。
「日本人は、中国マフィアが安い金で殺しでもなんでもやると思っているでしょう。実際は違いますよ。ラテンの血が入ったブラジル人が一番恐ろしいですよ。彼らは、笑いながら人を簡単に殺しますからね」
文政の声が遠くなるのを感じながら、私はセバスチャンのこの言葉を思い出し、ゴクリとツバを呑み込んだったのだった。
現在、セバスチャンは覚醒剤を日本にばら撒くだけばら撒いて、再び投獄されている。