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原理原則

進気鋭の作家 ー伊邪那 太郎が放つ!ー 新連載『極道としての論理』⑤

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ー原理原則ー


自分自身を大きく見せたいのか、背伸びをしたいのか分からないが、縁を持った親や兄親をボロクソに言う者の話しを聞いたりする機会がある。
此奴は本当にヤクザなのだろうかとつい疑いながら話しを聞いてしまう。
そんな親方の盃を受け、付いているアンタは一体、何様のつもりで話していると心に思いながら、話しを聞くのだが...確かに親方と距離が近ければ近いほど、見たくないものまで見えてしまうものなのだろうが...私にはまったく理解ができない。

ヤクザには吐いてよいことと絶対に吐いてはならないことが必ずある。
ましてや、自分の親や兄親のヤクマチ(陰口)は人前で吐くなど、とんでもない間違いであろう。絶対に吐いてはならない。
何故なら自分自身の値打ちを、自ら下げていることになるからだ。
今も昔も変わらないが、勘違いしているヤクザが多い理由の代表的な話しである。
結局、上部だけを見て縁を持つ典型的な例である。

周りが思うほどヤクザは綺麗なものではないし、理不尽なことも非常に多い。
だから、不満を抱える。
本来ヤクザとしての経験が年輪となり、其れが言葉を選びながら話す癖が自然と身につく。
先の投稿でヤクザは経験だけではないというようなことを書いたが、若くても飲み込みの早い若者は伸びる。
また、何年経っても伸びない者も居るのも事実である。
ヤクザは年功序列ではないが付いた親や兄貴分によって差は出てしまう。

話しを戻すが、言葉の重みを一番知ってるのがヤクザになる。
何故なら相手の吐いた言葉尻を突いて有利に話しを持っていったり、ケジメを付けさせたりするためで平たく言えば、揚げ足取りだ。
それがいざという時や相手との掛け合いにも繋がる。無論、力が筋とは言え犠牲者を出さずに済むのであれば其れに越したことはない。
しかしヤクザの言葉と行動は死活問題に直結してしまうものである。


文・伊邪那 太郎