ー達人スリッパー
スリの世界とは、実のところ、奥深いものだったりする。
私がまだ20代前半の頃、留置場で寝食を共に過ごしたスリ師にこんな話を聞いたことがある。本格的にスリをシノギとして活動している者には、お師匠さんがいるらしく、そのお師匠の下に門下生がおり、さながら「落語界のような仕組みになっている」と言うのだ。
また、スリをする場所には、テリトリーといったものもちゃんと線引きされており、この競馬場は、〇〇一門、このボート場は〇〇門下生といった具合に決められているのだ、と聞かされた。
ちなみに、そのスリ師は関西の某ボート場を主な活動範囲としていたらしく、今回もそこで逮捕されたのだという。
「お師匠さんはもう隠居されて現場には出てへんけど、そりゃあお師匠さんの仕事は職人芸やったで。匠の領域や。いっぺんそれを見せられたら、兄ちゃんも惚れ込んでまうこと間違いなしや」
当時は、水を差してはいけないと思い、黙って話を聞いていたのだが、実際、財布をパクっているところを見て惚れる者などいない。
まあ、好意的に解釈すれば、「それくらい凄い腕だった」ということなのだろう。
「もう......でも、あかん。スリは廃れてもうた(栄えてどうする)。おっちゃんより若い歳のもんがどの一門にもいてへん。もうこの業界も終わりや」
スリ業界が終わりだなんて、それはそれでめでたいことではあるが、なんだかおっちゃんの話を聞いていると、日本が誇る伝統芸の衰退を嘆いているようで、とてもじゃないが「ただのコソ泥やん!」とは言えぬ雰囲気があった。
このスリ師のおっちゃん、今頃どうしているのだろうか。スリ業界の縮小とともに、おっちゃんも足を洗ってしまったのだろうか。
と思いきや、なんと、このスリ師のおっちゃん、刑務所で文政に拾われてしまったのだ。
「なにっ! スリをすんのにテリトリーやと? 関係あるかい、そんなもん! この世界どこまで行っても弱肉強食じゃ! かまへんスリッパ、今日からワシが許可する。どこでも仕事せんかいっ!」
出所後、文政から、「新しい部下や」と引き合わされた時はさすがに驚いた。
若い頃、留置場で一緒になったあの"スリ師のおっちゃん"と、まさか再会を果たすことになろうとは、思ってもいなかった。
そして、文政になぜかスリッパという稼業名をつけられたこのスリ師は、文政の言葉通り、関西の某ボート場を飛び出し日本中をまたにかけて仕事をするようになり、そのおかげかどうかしらないが現在は南の国で受刑生活を余儀なくされている。
もちろん刑務所では後進の育成に余念がないはずだ。
ただの与太話とも言うのだが......。
●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)