【ここまでのあらすじ】3人の命を殺めた罪で拘置所に収容中の藤城杏樹。杏樹の心の支えは、まめに面会に来てくれる恋人のヒカリやヒカリの子、英須(えいす)だった。一審の裁判で死刑判決を受けた杏樹に、控訴してほしいと必死に訴えかけるヒカリ。その姿に心が揺れる杏樹だったが、自分がしでかしてしまった罪の大きさが杏樹に控訴をためらわせる。そんなある日、杏樹はぼんやりとヒカリとの出会いを思い返していた。
連載小説『死に体』第28回 第ニ章(六)
3畳にも満たない面会室は、ちょうど真ん中の所にアクリル板が嵌めこまれてあり、そのアクリル板こそがシャバと獄の境界線となっていた。
シャバ側のアクリル板の向こうで、険しい顔をオレへと向ける兄貴分に頭を下げた。
兄貴の後ろで、パイプ椅子に腰掛けるコトなく直立したままのスーツ姿のロキがオレに目札を送ってきていた。
「座らんかい」押し殺した低い声を発した兄貴に、「失礼します」ともう一度一礼し、パイプ椅子を引いて軽く腰掛けた。
「お願いやから控訴して......」と面会室でヒカが訴え続け、泣きながら帰った日の翌日。オレがパクられて初めて、兄貴分が面会室へとやってきたのだった。

「兄貴......本間に申し訳ありませんでした」
オレがトチ狂ったおかげで、どれだけ組織に迷惑をかけてしまったコトだろうか。指どころか、腕の一本ちぎっても追いつきはしないだろう。
オレのような世間を騒がす事件を起こしてしまった場合、所属している事務所の対応は、上部団体に対しても警察の問い合わせに対しても、事件を起こす以前の日付で『破門』もしくは『絶縁』にしていたと装うことが多い。
シャブやコソ泥レベルのご法度事項なら両者、薄々は事情を分かっていながらも、大抵それで納得してもらえる。
もちろん、今回もオレの所属していた組織は、オレと一切関係ない『体(てい)』で押し通そうとした。だが社会的に与えた影響力が大き過ぎた分、それで世間は納得しなかった。ヤクザ社会の死──つまり、オレを絶縁にしたぐらいでは追いつきようがなかったのだ。
もしかしたら、親父(組長)までもが処分されるのではないかと、執行部は神経をピリピリさせていたらしいが、どうにかそれだけは免れた。
ただ、やはり、何もお咎めなし、という訳にはいかず、親父は本部の役職を降ろされ、舎弟に直って、出世コースからは大きく後退してしまった。
それだけではない。
目の前の兄貴も責任を取って指を二本叩き、本家と本部にそれぞれ持っていった──ということも全て後ろに立つロキから聞いていた。
「過ぎたことは戻らん。もうゆわんでええ。今日は、そんなんでここに来たんやない。組とは関係ない。ワシ個人として、お前に逢いに来たんや」
兄貴は、険しい表情を変えることなく、なんの感情も読めない一定の押し殺した声でしゃべり続けた。
「犬、猫でも殺したら心が痛い。ワシら極道かてそれは一緒や。まだお前の前刑の時の殺しは、お前にも言い分があったのは、ワシもよう知っとる。それと違うて今回の一連の物事はなにひとつ、お前に言い分はない。
酷な言い方やけど、もう死刑でしか償えんやろ」
──もう死刑でしか償えんやろ──そう口にした時の兄貴の表情は、険しさよりも、痛そうというか苦しそうというか、哀しみをこらえている時のような目をしていた。
後ろに立つロキも唇を噛んだまま下を向き、視線を上げようとしなかった。
「わかってます」オレも視線を下に外し、消え入りそうな、か細い声でこたえた。
兄貴の言う通り、オレには死刑以外の道はもう残ってない。
これまでたくさんあった目の前の道を、なんのためにか、誰のためにか、ひとつひとつ潰していき、気付いた時には、もう首を括るこの道しか残っていなかった。
「やけどの!」
そこからの兄貴の声には、さっきまでの無感情の押し殺したトーンとは違い、感情が込められていた。
「杏、それでも死んだら終わりやど。死ぬまで生きんとあかんのやったら、恥かいてでも、無様さらしてでも生き延びるコト考えんかい。
そりゃ、ワシはお前に、男ゆうのは散る時に潔く散らなあかんて教えてきたかもしれん。でもそれは、極道としてのお前にや。
もうお前はヤクザやない。カタギなっとんねん。
カタギの男がまず一番先に考えんといかんのはなんや?」
兄貴の問いに、外していた視線を上げ、いつの間にか噛んでいた唇を開いた。
「外で待ってくれてる家族のコトやと思います......」
薄明かりの面会室で二人のやりとりを記載していた看守部長も、いつしか筆記の手を止め、話に聞き入っていた。
「昨日な、ヒカちゃんから電話もうてな」
「えっ!? ヒカからですかっ?」
そこから兄貴の声は、泣いてしまうくらい優しかった。
「なぁっ杏。もうこれ以上、ヒカちゃん泣かしたんなよ。ずっと泣いとったぞ。たとえ、可能性がまったくなくても控訴して欲しいって。何10年かかっても、生きてもう一度帰ってきて欲しいって。こんなんなってもお前には、そんなんゆうてくれる子がいとんねんから、それだけでもお前は、本間幸せもんやんケッ」
オレの目には、涙が溢れていた。
泣いたらあかん、泣いたらあかんと、必死に堪えようとするのだけど、一度降りだしてしまった涙は止むコトなく降り続けた
「仏壇に手を合わせて祈ってやることしかもうしてやれんけど、毎朝、毎晩、お前が生きて帰って来れるように手を合わせて祈ったる。もうそれしかしてやれんけど、一日もかかさず祈り続けたる。
だから杏、帰ってこい。男やったら生きて帰ってきてみせんかい」
そう言った兄貴の目も真っ赤だった。
「最後の最後はお前自身が決めたらええ。ただ、これだけは忘れんなよ。
世界中が敵になっても、お前は一人やないねんど。お前がカタギになっても、ワシはお前の兄貴分やど」
オレは声を上げて泣いた。子供みたいに泣きじゃくった。
「あっい......あっいがっと......っござっいますっ......」
涙と鳴咽が引っかかり、上手く──ありがとうございます──という言葉が言えなかった。
ヤクザになんてなっていなければ、こんな人生になっていなかったかも知れない、とヤクザを恨んだこともあった。
そうでも思わないと、とてもじゃないが、やりきれなかった。
だが結局、こうなってしまったのは、なにもヤクザになったからではなく自分自身のせいだということを、オノレ自身が一番理解していた。
シャバと獄の境界線となる面会室で、オレはいつまでも泣き続けていた。
規定の面会時間の10分を大幅に超えても、立会担当の看守部長は、何も言わなかった。
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