福島県教育委員会は25日、同県会津地方の県立高校で19日、女子生徒が首をつって自殺しているのが見つかったと明らかにしました。女子生徒は18日に登校したが帰宅しなかったため、保護者が県警に捜索願を出していましたが、19日午前3時ごろ、女子トイレで首をつっている女子生徒を発見しました。高校では24日から25日にかけ、生徒らにいじめがなかったかどうかアンケートを実施、結果がまとまり次第、公表する方針です。
あらためてアンケートを取らなければわからないものなのか?

写真はイメージです
学校側は自殺した女子生徒がいじめにあっていなかったかどうか、アンケートを実施したというが、生徒達にアンケートを取らなければ、そんな事も分からないのか。普段の生徒の表情や声、仕草などから、その生徒の状態を把握する事も教師の大事な役目ではないのか。生徒達の何を見ていたのだろうか。何も見ていなかったからこそ、生徒達に聞かなければならないのではないか。
お粗末な話である。特にこの女子高生の担任は何をしていたのであろうか。アンケートを取らなければクラスの動きを理解出来ないというならば、担任なんて必要ないだろう。
人の死に臨み、自分達の職務怠慢を棚に上げ、アンケート結果を公表するとか軽々しく言うもんじゃない。いじめがあるという事は、いじめた側の生徒もいる事になるのだぞ。今度は、その生徒達を追い詰めていく結果になるのではないのか。
確かにいじめはいけない。だが、そういう環境を作ってしまっている教師達は、もっといけないのではないのか。なんにせよ、哀しい事件である。
私は22歳から38歳までの16年間、ヤクザ渡世に身を置いてきた人間なので、一般の人達より人の死に多く接してきたように思う。
さっきまで、生きていた者が目の前で殺された事もあるし、自らの手で人を殺めてしまった事も過去にある。
そうして、色々な人達の死に自ら関わってきてしまったが、その中には自殺という形でこの世に別れを告げた人も何人かいた。
その死に接する度に、こもごもの想いがあったのだが、今回は一人の同級生の死について、少しだけ語ろうと思う。

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今からちょうど10年前の9月。彼女は、自らの意志でこの世に別れを告げた。享年29歳。
活発な女の子だった。中学時代は、バレー部に所属し、部活に学業と熱心だった。
そんな女の子と対照的に、中学3年生で鑑別所などに送られたりしていた私だったが、何故か彼女と付き合う事になった。
付き合うといっても、彼女と遊ぶよりも暴走族のほうが忙しかった私は、ほぼ彼女の事は放ったらかしであった。
そういう付き合いが1年ほど続き、彼女とは自然に別れていった。
そして時は流れて、彼女は高校卒業後直ぐに結婚したという事を風の噂で耳にした。その時に私は、彼女に電話を入れ、話をしている。
それが彼女との最期の別れとなった。
結婚のお祝いの言葉を伝えたあとは、互いの近況を伝えあった。
彼女は幸せそうに話していた。そして私に、「女の子には優しくしやんとあかんねんで」と言っていたのだが、それが私と彼女が喋った最期の記憶になっている。
更に時は流れ、私は裏街道をあゆみ、彼女の自殺も知らぬまま、歩き続けた。そして、二度目の懲役を務め終えた頃に、彼女が自殺していた事を知らされた。
できるなら、知らずにいたかった。
もちろん、私が出来た事など何もない。
ただ、彼女が眠る墓石の前で、昔の若気の至りを詫びただけである。
(文=沖田臥龍)