>  > 山口組実録シリーズ 「菱の血判」その⑧ ~菅谷コネクション~
日本の裏社会で今、なにが起ころうとしているのか?

山口組実録シリーズ 「菱の血判」その⑧ ~菅谷コネクション~

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 創立100周年目の山口組に起きた「別れ」という離脱分裂劇。マスコミ等では分裂理由を、主に会費の高騰、と紹介しているが、血で血を洗いながら100年間も続いた組織の分裂理由はそんな単純なものではない。
「11年前に戻っただけや」
 分裂理由の真相を知る幹部たちは残念顔でこう言った。山口組は11年前から神戸一派と名古屋一派との間で確執が生じていた。脈々と沸々と続いていたものがこの度遂に分裂というかたちで表面化したのである。六代目山口組の分裂劇とは一体何なのか? 山口組に詳しい藤原良氏に解説してもらった


直参組織を横断して存在する"菅谷コネクション"


 「神戸山口組」の発足により山口組における分裂が始まった。神戸山口組という名称の団体が誕生したことによりマスコミ等では分裂が完結したかの様に報じられているが、実際は、先に「受け皿」が出来ただけで、山口組の分裂劇はまだ始まったばかりなのである。

 これまでに何度も述べてきた「別れ」という離脱分裂の状況は、神戸山口組の設立よりも早く、────精神的レベルではかなり前からはじまっていたのだが、水面下で起きていたので気づかれなかっただけであって────実は一部マスコミ等で報道されるような突発的な出来事ではない。国内最大ヤクザ組織の山口組に一体何が起きているのか? そして、この巨大組織ではそもそも何が起きていたのか?

 山口組は、三代目時代の全国制覇で急速に巨大化した。だが巨大化した事により、それまでにはなかった「内部対立」という持病を組織として抱えるようになった。山口組史の中で、特出した内部対立騒動は、菅谷組問題である。


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「武闘ヤクザ伝三代目山口組若頭補佐菅谷政雄 煩悩編」竹書房

 菅谷組は、昭和30~40年代に渡って三代目山口組若頭補佐として活躍した菅谷政雄組長(1914年~81年)の率いた組織だ。菅谷組長は通称・ボンノと呼ばれ、全国にその名を轟かせたヤクザ業界のスーパースターであり、菅谷組もまた当時の山口組の組員数約1万2千人のうちの10%の約1200人の組員数を誇る組内トップクラスの直系団体だった。当時の山口組の10人に1人は菅谷組組員だったという。

 菅谷組の"力"を語る上で、ひとつのポイントとなるものとしては芸能界ルートがあげられるだろう。芸能と山口組との関係としては田岡一雄三代目が興した神戸芸能社が有名だが、菅谷組の芸能界ルートも広範囲に渡っており、実は、現在の六代目山口組の芸能界ルートは、どちらかといえば神戸芸能社よりも菅谷組芸能界ルートの産物なのである。細かく言えば、菅谷組傘下で静岡責任者をしていた後藤組が菅谷組芸能界ルートを引き継ぎ、やがて、後藤組から弘道会や司興業へと人脈が移動していった。芸能界ひとつ見ても菅谷組の影響力は大きかった。

 高齢化している現在の六代目山口組内だけでなく、ヤクザ業界にはこの菅谷組出身者がまだ多く残っている。

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wikipedia「菅谷政雄」より引用(リンク

 菅谷組は、大組織であったがゆえに、内部対立も激しかった。やがてその対立は内部抗争にまで発展してしまい、最終的には山口組から絶縁処分とされた(81年)。その結果、菅谷組傘下団体は解散状態となり、傘下団体各組各組員たちは、多くは山健組等に移籍していった。菅谷組残党を吸収した山健組は、その後、山口組内でも群を抜く総合的な組力(暴力性、経済力など)を誇るようになる。また先記した通り、菅谷組出身者はほうぼうに数多く散らばっており、菅谷組解散後は山口組内に組織横断的な形で菅谷コネクションが根付くようになっていた。

 

 組織が巨大化し、席順や机順は変わっても、人間同士の繋がりはなかなか理屈通りにはいかないところがある。先輩後輩、兄弟、友人仲間等の繋がりもそのひとつで、組織から振り当てられた階級や役職とは違う人間関係が組織内に存在する事はむしろ当たり前の事だとも言える。もっとも、それが友好的かつ合理的に機能しているうちは問題は起きない。

 菅谷組は解散したとは言え、山口組内における菅谷コネクションは存在し続けた。それは何も内弁慶的、同窓会的なものではなく、対外的にも合理的かつ友好的に機能するものであった。ある組とある組とが一触即発の状態になったとき、それらの組に分散していた菅谷コネクションのメンバーが連絡を取り合って緊張を緩和させたことも少なくない。つまり、存在させておいたほうが山口組全体のためでもあったのだ。四代目、五代目、そして、現在の六代目山口組においても、組内の人間構図を理解する上で、この菅谷コネクションは必ず知っておかなければならないポイントである。

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「実録 神戸芸能社」双葉社

 山口組が三代目から四代目へ、そして、一和会抗争を経て、五代目山口組となった頃も菅谷コネクションは脈々と続いていた。菅谷コネクションは、一和会抗争終了時、一和会側に居た組員たちを山口組に復帰させる架け橋として機能した事もあった。山口組内では、菅谷組出身者が直系組長になったり各組の主要ポストに就く事も多かった。また、元菅谷組解散後、カタギとなった者の中には一般社会で大成功を収めた者も多く、こういった人物たちが山口組に残った現役組員たちの支援者となったりもしていた。つまり菅谷組は、絶縁・解散後も、菅谷コネクションとも呼べる人脈により四代目、五代目山口組内に根強い影響力を築いていたわけだ。そんな組織のひとつに、後に宅見若頭暗殺事件を起こす五代目山口組若頭補佐・中野会があった。中野会長自身は、山健組七人衆と言われる程の生粋の山健派であるが、菅谷組解散時に山健組が旧菅谷組組員を吸収した経緯から、中野会は主に事業面で菅谷コネクションとの交流が深かった。

 

 そして、昭和50年代頃から日本経済は土地バブル期と呼ばれる未曾有の好景気時代に突入。巷では"地上げ"という言葉がよく聞かれるようになり、不動産事業での収益が莫大な金額に上るようになった。脱サラしたサラリーマンでさえ一攫千金を実現出来たこの時代、暴力団が地上げや不動産取引を積極的に行い、多額の収益を得ていたことは言うまでもない。しかし、そんなバブル好景気時代もやがては縮小の一途をたどり、経済人が新たなる稼ぎ場を模索し始めた頃、暴力団も例外なく次なる稼ぎ場を求め始めるようになる。

 昔から中野会には縄張りという概念がなかった。中野会はその卓越した戦闘能力を背景に、いつでもどこでも中野会会長がいる所が本拠地というスタイルだった。そして、中野会も次なる稼ぎ場を探していた。ちなみに、中野会は縄張りを持たなかったという点から言えば、当時、日本で最も危険な組織だったと言える。いわば「すべてを拳銃でもぎ取る組織」だった。

 

 中野会がたどり着いた先は、様々な歴史的背景と政治的背景から戦後ほとんど開発の手が付けられていない、約8万6千坪にも及ぶ広大な都市の再開発利権だった。土地バブル経済が縮小していたからこそ「今まで誰も手を付けなかった、ワケありの広範囲都市開発案件」に中野会がたどり着いたのである。この事業を仕上げれば目算でも1000億円以上の収益を上げられる。さらに開発事業達成後の関連収益も莫大だった。いわゆる、ワケありがゆえに残された「最後の土地バブル地帯」であった。

 そして、同じようにこのワケあり再開発利権に注目していた人物があった。山口組きっての経済ヤクザと言われた五代目山口組若頭だった。彼も次なる稼ぎ場としてこの再開発利権を虎視眈々と狙っていた。

 五代目山口組若頭が率いたのが宅見組である。この宅見組内にも当然のように菅谷コネクションの人間たちが多く存在している。ひとつの獲物に対して中野会と宅見組というふたりの狩人が存在するかたちとなったが、両組とも菅谷コネクションというルーツを同じくするものも多くいたのに、この再開発利権に関してだけは商売敵と相成ったのは、組対組の対立というよりも五代目山口組若頭補佐・中野会会長個人と五代目山口組若頭・宅見組組長個人の対立という側面が強かったからである。個人的な商売センスにより、この強者ニ者がひとつの獲物を狙いあう事となったのだ。他組織にとってもこの再開発利権は同様に絶大なる旨味があったが、このニ者と表立って事を構えられるヤクザはそうはいない。日本の暴力団社会はひとまずこの日本一危険なヤクザと日本一の経済ヤクザの動向をうかがった。

 中野会と宅見組。同じ菱の代紋。そして、盃の重さから言えば、山口組の場合は、若頭が兄で若頭補佐が弟という兄弟関係である。シノギがバッティングした場合、盃の重さを考慮して兄に譲るという風習もあるが、この再開発利権獲得について中野会会長を後押ししたのが山口組五代目だった。こうなると風習から言えば、子である若頭は親分である山口組五代目に譲らなければならなくもなるが、五代目山口組若頭・宅見組組長は一歩も譲らなかった。「親分であろうとも個人のシノギに口を出すな」というのが宅見若頭の言い分であった。また、宅見若頭から言わせれば、なぜ組長が若頭の肩を持たずに若頭補佐の肩を持つのか?という不満もある。

 そして、このやり取りを、ひとまず静観していたのが、後の山口組六代目となる司忍弘道会会長(当時)であった。

 弘道会傘下に菅谷コネクションの人員は少なく、弘道会は当時から山口組内でも良くも悪くも孤高な異彩を放っていた。

 すべては、ここから始まった。

 組内のシノギの衝突なんてものは大小数えればいくらでもあった。シノギは各組各人がそれぞれにやっている場合も多い。ゆえに、ぶつかる事もある。ただそれだけの話である。ただそれだけのはずだった。しかし、この「最後の土地バブル地帯」と呼ばれた再開発利権でのニ者の鉢合わせは、その後の山口組にとって大きく運命を変えるものとなった。これは五代目時代の最大のタブーとも言われ、今まで、発表された山口組関係の書籍ではすべてオブラートに包まれている。正確な情報を公開出来なかったのか? もしくは、もとから知らされていなかったのか? そして何より、ここからすべてが一直線となりゆっくりと時間を掛けて六代目山口組の分裂劇へと繋がっていく。ゆえに、タブーとされているのか......。

 次回より、五代目山口組最大のタブーを紐解いてゆく......
 


(取材/文=藤原良)
 
 

※サムネイル写真は菅谷政雄氏が生前、愛していたというリンカーンコンチネンタルマークⅡの同型車のイメージ写真です。