>  > 工藤明男緊急寄稿「山口組の分裂と関東連合の壊滅」
日本の裏社会で今、なにが起ころうとしているのか?

工藤明男緊急寄稿「山口組の分裂と関東連合の壊滅」

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対照的な2つの書状



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9月1日に開かれた六代目山口組の定例会で全直参に配られた司組長からの手紙


 手紙は「まず先人の墓標にひざまずいで頭を垂れるのみであった」というところから始まる。続いて、特に、山健組と宅見組の組碑の前に立った時には「深く謝るだけだった」ともある。

 山健組と宅見組とは、まさに今回の造反組とされる神戸山口組を発足させた山健組井上邦雄組長(神戸山口組組長)と宅見組入江禎組長のそれぞれの組のことである。それら初代組長の「組碑」の前で「深く謝る」とは、どういう意味なのだろうか。暴力団の世界で言うところの「謝罪」や「誠意」「詫び」とはイコールではないかもしれないが、そこからは司六代目の心痛は間違いなく伝わってくる。だからこの部分に関しては、それ以上の裏読みはしなくて良いのではないだろうか。文面をそのまま受けとれば、その瞬間、司六代目は本当にそういう想いをしたのであろう。

 とはいえ、この手紙には気になる部分もある。僕が一番気になる部分は「山口組には内紛、離脱、分裂等を繰り返して成長してきたその過程で、有能な多くの人材を失ってきた歴史と反省があった。人は誰も学習能力がある。彼ら(離脱していった神戸山口組のこと)はその体験者であるのにもかかわらず、学習能力と反省がないのかと思うと残念でならない」というくだりである。

 このくだりは、図らずも山口組の歴史を物語っており、山口組六代目体制を象徴したフレーズのようにも思える。

 スケール感は全く異なるし、おこがましいことも十分自覚しているが、このくだりからどうしても僕は関東連合の勃興と衰退を想起してしまうのだ。内紛と離脱と分裂とを繰り返すことによって成長する────関東連合もまた敵意の矛先を内部と外部へ繰り返し向け続けることによって強固で強圧的な結束力を築いてきた団体であった。それには見立くんという独裁的なカリスマの存在が大きく作用していた。仲間内に対する敵意の向け方も容赦がないが、逆に外部への襲撃時には瞬間的な団結力を見せ、その名を不良社会に轟かせてきた。そして、その過程ではやはり有能で心意気のある同志を粛清やバックれというような形で失ってきた。さらに最終的には世の記憶にもまだ真新しく残っているだろうが、六本木クラブ襲撃事件という最悪な形で一般人を巻き込んだ愚劣な人違い殺人事件(起訴罪名は傷害致死事件だが)を引き起こしてしまった。見立くんは"首謀者の見立真一容疑者"となって海外に逃亡し、国際指名手配となったが、その消息は未だに不明である。その後、関東連合は壊滅状態に陥った。

 厳密に言うと独裁者が不在となったことによって、これまで見立くんに対する不満を口にすることのなかった者たちまで口々に不満を言うようになった。見立くんは海外逃亡後もなお国内に残る関東連合のメンバーに影響力を持とうといろいろ画策したが、直接的な暴力手段を失った彼の求心力は急速に失われていき、ほとんどの者が彼の元を離れていった。

 絵に描いたような独裁型政治の衰退だが、これと今回の山口組の分裂騒動を重ねて考えてみる。

 司忍六代目は山口組組長に襲名後間もなく拳銃所持の共謀共同正犯の罪で刑務所に収監された。不良社会で刑務所に収監されるということは、同じ社会不在でも海外逃亡とは訳が違う。その苦労を敬われ、時には神格化さえされる。つまり実質的な社会的影響力は健在のままなのである。

 その影響力を駆使して現六代目山口組の新体制を築いてきたとされるのが、司忍六代目組長と同じ弘道会出身で六代目山口組の若頭である高山清司若頭である。

 当時の後藤組後藤忠政組長の芸能人とのゴルフコンペ主催を理由(実際は山口組の定例会にもろくに参加しなかったという理由が大きいのだろうが)とした破門処分(のちに破門から除籍へと変更)を皮切りに、五代目までの山口組体制を支えてきた歴代の直系組長たちが次々に破門、除籍、引退に追いやられていった。

 同時に後藤組後藤忠政組長の処分を不満として反旗を翻そうとした組長連中も処分の対象となった。露骨なまでの粛清だった。だが意外なことに、後藤組をはじめとする他の組もすんなりと処分を受け入れて現六代目体制となった。なぜ当時の組長連中は反旗を翻さなかったのだろうか? 今回の分裂劇とどこが違ったのだろうか。