>  > 山口組実録シリーズ 「菱の血判」その② ~分裂Ⅱ~
日本の裏社会で今、なにが起ころうとしているのか?

山口組実録シリーズ 「菱の血判」その② ~分裂Ⅱ~

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六代目発足当時の「黒点」とは


 「今の状況は11年前の山口組に戻っただけや」

 平成17年。五代目引退から六代目誕生の年である。この頃、六代目就任をめぐって、すでに山口組は内部分裂状態にあった。

 当時の組長であった山口組五代目に対して引退を迫る名古屋一派と、それをよしとしない神戸一派による内部分裂──具体的には、名古屋・弘道会派と神戸・山健組派との対立による内部分裂である。まったくもって、今の現状と同じ構図があの頃にもう出来上がっていたのである。数から言えばほぼ互角の内部分裂で、琵琶湖(滋賀県)を境界線にして、西側が神戸一派、東側が名古屋一派とし、当時の山口組は2つに分裂していた。さらに対立による抗争もはじまろうとしていた。

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『憚りながら』後藤忠政著 宝島社

 名古屋にも神戸にもそれぞれ言い分があった。この対立による内部分裂を鎮火して決定的な分裂状況を回避させ、五代目引退から六代目誕生へと「抗争なきシフト」を先導したのが後藤組であった。この後、後藤組は六代目舎弟となったが、六代目誕生から3年後の平成20年に、周知の通り後藤組は六代目山口組を除籍処分にされた。六代目山口組にとって、後藤組は「抗争なきシフト」の先導者であり、六代目誕生の大きな功労者とも言えるが、後藤組の余命は六代目誕生からわずか3年間ほどでしかなかった。

 

 山口組が琵琶湖を境にして東西に分裂していた頃、五代目に引退を迫る名古屋一派は対立抗争の気配を強めていた。これに対して神戸一派も抗争準備を開始していたが、それまで中立的立場であった後藤組が神戸一派への合流を宣言した事により、

①名古屋は、地の利的に神戸と後藤組(静岡)に挟みこまれた。
②神戸一派の人数と資金力が名古屋一派を大幅に上回った。

といった点が大きく影響して、急速に抗争色が弱まったのである。

 さらに、分裂抗争回避の条件として「神戸一派から六代目は推挙せず、名古屋一派から六代目を出す」という約束が後藤組から提案された。当時、神戸一派の中で六代目候補筆頭だった三代目山健組々長は、山健組史上初の山健組総裁という名誉に預かるかわりに六代目候補から降りた。そして、名古屋一派から現六代目が誕生した。その後、六代目は銃刀法違反により長期服役となった。

 当時、後藤組の合流により力では勝っていた神戸一派が六代目の座を名古屋一派に譲ったのは、後藤組長の思惑によるところが大きかった。「山口組は一枚岩でなれけばならない」。つまり、分裂するぐらいなら名古屋に六代目を渡したほうがいい、という事である。これは山菱の代紋に身体を懸けてきた男たちの本音である。そして、もうひとつの本音は「名古屋が六代目になったとしても、数と資金力から言えば後藤組が合流した神戸一派が組内最大派閥として、もっと言えば組織内の最大連合体として君臨すればいい」という事である。つまり「神戸は実を採り、名古屋は名を取った」のである。

 しかし、この事は"組織と統率"という面から見れば多いに問題の残る決着であった。要するに六代目山口組は、発足当時から組織内に神戸一派という「敵」を抱えての船出となってしまったのである。しかも六代目自身は長期服役中である。この局面を組長不在の長として担ったのが六代目山口組若頭であった。六代目の命により、六代目山口組若頭は、強硬とも強行とも言える名古屋支配をはじめたのであった。

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『六代目山口組高山清司若頭若き日の波乱万丈伝』メディアックス

 名古屋支配とは、よく言われるシノギの締め付けというのは表面的な話で、実際は、敵である神戸一派の切り崩しであった。その皮切りが、六代目発足から3年後に起きた後藤組の除籍処分であった。後藤組は名古屋一派にとっては最初から大きな壁であり、はじめから大きな敵だった。神戸一派の守り神であり組織内最大派閥のボスと言っても過言ではない後藤組の存在は、六代目山口組にとって大きな邪魔者でしかなかった。さらに後藤組の処罰は連座して他団体にも及び、後藤組を含む8団体が除籍、絶縁、破門にされ消滅した(一部は後に復帰)。

 今の時代、道具を持って走るだけが抗争ではない。世界情勢を見てもミサイルや戦車の戦いが戦争だという時代ではない。「経済制裁」、そして、様々な「法的制裁」。これらを駆使する事により、敵国の国力を削ぎ、困窮させて、崩壊させる。武力行使だけが戦争ではない。六代目山口組がはじまってから、後藤組他数団体が制裁により消滅した。その後、最大派閥であった神戸一派に属する団体内から昇格するかたちでいくつもの団体が直系団体にされた。山健組で言えば、山連組内でもトップクラスであり島田紳助問題でも有名な極心連合会が山健組から出て直系団体となった。極心連合会は現在六代目山口組統括委員長に重役に就いている。この事は山健組はもちろん神戸一派にとっても大きな勢力弱体となった。

 繰り返すが、今の時代、道具を持って走るだけが抗争ではない。ようするに、やり方はどうでもいいから敵が崩壊して消滅すればいい。神戸一派は、山口組内で、もうすでに名古屋一派から抗争をしかけられていたのである。「制裁」と「処罰」という「名古屋支配体制」により武力行使とは違う抗争を開始されていたのである。

 神戸一派はその事に気が付くのが遅かったのかも知れない。もっと早く気が付いていたら、神戸一派はもっと早く六代目山口組を離脱していただろう。これまで様々な利権を名古屋にもぎ獲られ、組内での立場を外され、ようやく気が付いたのである。「一枚岩だったと思ったが、もう既に一枚岩ではなかった」のである。ずっと六代目山口組は「静かに内部抗争をしていた」のである。11年前から内部抗争がはじまっていたのである。それは、名古屋だけが作った状況なのだろうか。そうではなかった。神戸一派もそうなるしかない状況を招いた節は多分にあるのである。  (続く)


(取材/文=藤原良)

 

 
 
※サムネイル画像は山健組本部の画像 ©2015 google