>  > 「これは彼が神へ叩きつけた挑戦状だ!」人気作家・冲方丁が起こしたDV事件の真相に迫る

「これは彼が神へ叩きつけた挑戦状だ!」人気作家・冲方丁が起こしたDV事件の真相に迫る

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DV作家の神への挑戦

 DV(ドメスティックバイオレンス)は、全く正反対の教理である。自分の思い通りにならなければ、暴力を振るってでも相手を意のままに操る、そんな極論さえ思い浮かぶ。教理という言い方は非常に不敬なものであるが、かといってここまで世界規模で、しかも根強く配偶者への暴力が存在し、恐らく消失することではないであろう思想は、ある意味で「教理」と呼ぶにふさわしいのかもしれない。

 「天地明察」の作者・冲方容疑者も、自分で物語を書きながら、囲碁と違い全く思い通りにはならない神道や天文の世界と共存していく主人公に、自分の姿を重ねていたのかもしれない。つまり、自分にも思い通りにならない事が多々あって、小説の主人公という立場を通して感情を表現することで精神のバランスを保っていた、ということである。

 しかし、それもやがて効果を発揮しえない時がくる。その物語から自分が卒業する時、自分の感情のはけ口を新たに見つけるか、作り出さなければならないのだ。しかも、映画化されるほどに天地明察が有名になってしまったのだから、世間的にも注目を浴びてしまうことにより、より自分の感情を吐き出せる場面が少なくなっていったことが想像される。はけ口を失った自分の負の感情は、当然ながら自分の一番身近な存在へと向き易くなる。しかもそれが、多くの場合閉鎖的な環境の中で行える家庭内暴力だとしても、驚くことはない。

 聖書のことばを借りれば、神は最初にアダムという完全な男性を創り出し、それを補う者としてアダムのあばら骨をとってエバという女性を創り出した。補う者として創り出した配偶者に対し暴力を働くというのは、加害側が男性であっても女性であっても、神への挑戦、或いは冒涜なのではなかろうか。

 冲方容疑者も、配偶者への暴力を通して神への挑戦状をたたきつけたのかもしれない。それは一種の自己表現、自己発散の手段であり、自己を確立するための方法であったのだ。このように考えると、DVというものの恐ろしさ、また影響の強さを再認識出来る。

 いずれにしても、社会的にも人間的にも許される行為ではないことは確かだ。正しい援助を得て、更生してくれることを願う。


(文=Rockfirld)

top画像出典:映画「天地明察」