>  >  > 悪=ヤクザを生む社会に欠けているもの...『卑劣な街』後編
宮崎学の「本当はおもろい韓国ヤクザ映画」第10回  『卑劣な街』後編

悪=ヤクザを生む社会に欠けているもの...『卑劣な街』後編

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第10回『卑劣な街』"社会なき社会"の悲劇 後編

『卑劣な街』前編はこちら

不良と純愛

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『卑劣な街』予告編より

  ヤクザとしての生活が立ち行かず、焦るヤクザのナンバー2のビョンドゥのもとに、映画監督になった幼なじみのミノが訪ねてきた。ミノに取材を申し込まれたビョンドゥは快諾し、ミノの計らいで同じく幼なじみのヒョンジュとも再会できる。ヒョンジュは、ビョンドゥの初恋の相手だった。ビョンドゥはヒョンジュとデートを重ねていく。

 このような設定がヤクザ映画に必要なのかは、好みが分かれるところだろう。私は必要ないと考えるが、「ワルの純愛」は、見る者の心を打つようだ。ビョンドゥに限らず、韓国ヤクザ映画の主人公は、ほとんどが純愛を貫いている。

 今風に言えば、「ギャップに萌える」のかもしれないが、私は、不良に純愛は求めるべきでなく、ワルはワルとして生きるのが美学と考える。本来の「美」とは、作家でアナキストの大杉栄が指摘したとおり、権力に対する反逆と破壊の中にある。

 一方で、ワルがなぜワルになるのか、愛とは何なのか、といったことは論じられてもいいとは思う。人がヤクザになる背景には、差別と貧困、そして欠損家庭などがあるが、それだけでもないからだ。

 これについては、学者で作家の姜尚中氏が興味深い指摘をしている。「悪」の反対とは、「善」ではなく、「愛」、そして「社会」ではないかと言うのだ。

「現代は、自己責任だ、自助能力を発揮しろとせき立てられ、そこに社会がないわけです。私は、悪の反対は、善ではなく愛だと思うんです。さらに言うと社会だとも思う。いま、人間は自己中心のガリガリ亡者になって、社会はあてにできない。むしろ、社会からさげすまれているという気持ちの人がたくさんいます。ですから、悪を解き明かすことで、社会を取り戻すことに目を向けたい」2015年6月3日05時00分 朝日新聞電子版

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『卑劣な街』予告編より

 なるほど、悪とはそのような「構成」にあるのだろう。悪すなわちヤクザを生むのは、社会の不備と愛の欠如なのだ。
 そして、密かにヒョンジュとの純愛を育てていたビョンドゥは、組織の黒幕のファン会長から、ある検事の抹殺を打診される。検事は、起訴を匂わせて会長をゆすっていたのだ。会長から「成功したら、一生面倒を見てやる」と言われ、最初は断ったビョンドゥも引き受けることを決意する。

 これがヤクザの悲しさであり、また生きる道である。

 生活のためにヒットマンとなったビョンドゥの生き様は、本欄の読者諸君にどう映るだろうか。


   


【映画の概要】韓国では公開1ヶ月で200万人の観客動員を記録した本格ノワール・アクション。貴公子的なイメージだった人気俳優チョ・インソン演じる三流ヤクザのビョンドゥの生きる卑劣な世界を描く。母や子分の生活も支えなければならないビョンドゥは、小さな組織の冴えないナンバー2であるが、ボスに冷遇され、ようやく手に入れたゲームセンターのシノギ(経営権)も失ってしまう。そこに映画監督になった幼なじみのミノが訪ねてくる。ミノに取材を申し込まれたビョンドゥは快諾し、ミノの計らいで同じく幼なじみのヒョンジュとも再会する。ヒョンジュは初恋の相手だった。
 ヒョンジュとの愛を育みながら、ヤクザとしての成功を焦るビョンドゥ。ある日、組織の黒幕であるファン会長から、ある検事の殺害を打診される。検事は起訴を匂わせて会長をゆすっていたのだ。悩んだ末、決意したビョンドゥは......。
ユ・ハ監督。韓国公開は2006年、日本は07年。


   




宮崎学 1945年、京都・伏見のヤクザ、寺村組組長の父と博徒の娘である母の間に生まれる。早稲田大学在学中は学生運動に没頭し、共産党系ゲバルト部隊隊長として名を馳せる。『週刊現代』(講談社)記者を経て、家業の解体業を兄とともに継ぐが倒産。その後、 グリコ・森永事件では「キツネ目の男」に擬され、重要参考人Mとして警察にマークされるが、事件は2000年2月13日に時効を迎え真相は闇に消えた。1996年10月、自身の半生を綴った『突破者』で作家デビュー。近年は、警察の腐敗追及やアウトローの世界を主なテーマにした執筆活動を続けている。