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【R-ZONE浅草】

4月の浅草を花魁がゆく

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絢爛豪華ながらも哀しい世界

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沿道は観光客で埋めつくされた(撮影/石川真魚)

 浅草寺北側の小松橋通りでは、毎年4月の第二土曜日に「浅草観音うら 一葉桜まつり」が開かれる。

 13回目となった今年は雨天のため12日の日曜日に開催され、満開の「一葉桜」(八重桜の品種)の並木道で華やかな「花魁道中」が披露された。

 江戸時代、芸事にも秀でた最も格の高い遊女である花魁は、自分を指名できる裕福な客が待つ揚屋(あげや)にやってきて夜を共にしていた。

 盛装した花魁が揚屋へ向かう道行きが「花魁道中」と呼ばれ、客の富の象徴であり、庶民の楽しみにもなっていたとされる。

 1957年の売春防止法の施行とともに遊廓は閉鎖され、当時を知る人は今はほとんどいないが、花魁道中は江戸文化の継承のために地元の町会や青年部が中心となって続けられてきた。

 今年は5年ぶりに二人の花魁が登場、花魁候補生の禿(かむろ)らとともに三枚歯の高下駄を履いて「外八文字」で練り歩き、特設ステージで独特の花魁の所作や舞を披露した。

 また、浅草に稽古場を構えるお囃子(はやし)の望月太左衛(たざえ)社中による生演奏や、浅草で芸者の修行を積んだ二三松(ふみまつ)姐さんによる「二調鼓」(にちょうつづみ、吉原のみに伝わる大鼓と小鼓を同時に演奏する至芸)の演奏もあり、江戸の情緒が再現された。

遊女と芸者

 現在の吉原は、16世紀中ごろに日本橋の吉原を廃止して「新吉原」として誕生した。

 江戸で唯一の幕府公認の遊廓であり、非公認の花街(岡場所)はもとより京都の島原や大坂の新町の遊廓に比べても別格であった。

 そこでは遊女とともに芸者も活躍しており、吉原では芸事の文化も栄えていたのである。本来の芸者とは、文字どおり「芸を披露する者」であり、かつては幇間(ほうかん、太鼓持ち)など男性の芸者も多かった。

 吉原の芸者には「芸は売っても見は売らない」という矜持があり、昨今の売春婦的なイメージの「ゲイシャ」は花街の「自称芸者」たちが作ったものといわれるが、それは近代になってからの話のようだ。

 新吉原の発足当初の遊女たちは芸達者であり、それだけに遊ぶ側にも資力と教養が求められたので、しばらくすると、扱いやすくてラクに安く遊べる「散茶」と呼ばれる遊女たちに人気が集まるようになる。

 だが、彼女たちは芸ができず、18世紀中ごろには最高ランクの花魁「太夫」も消滅してしまう。

 こうした中で、座持ちのする芸者衆も出てくるのだが、当初は遊女と芸者で客の取り合いをすることもあり、芸者を一括管理する「見番」が設置されたのである。

 華やかではあるが、かなりドロドロした世界であったことは想像に難くない。

 特に遊女たちの人生は悲惨であった。

 18歳から27歳くらいまで客を取らされるが、この間に親の借金に加えて自分の衣装代などでさらに借金を増やしていく。

 身請けしてくれる客がいない限り出て行けず、梅毒や結核などで命を落とすことも珍しくなかった。

 こうした当時の状況は、たとえば五社英雄監督の映画『吉原炎上』(1987年)からうかがうことができる。

 撮影には吉原のかつての引手茶屋(遊女と遊ぶための案内所)で1998年に閉店した料亭「松葉屋」が吉原のしきたりや言葉遣いなどを指導しており、当時がリアルに再現されているのだ。

 今年の「一葉桜まつり」では、1962年の作家の久保田万太郎が書いた「松葉屋」の宣伝の手紙も披露されたが、久保田は半世紀以上も前に「江戸情緒の保存」に尽力していたことがわかる。

 遊女たちにとっては災難でしかなかったことを「文化」や「情緒」などと喜んでいいのか、迷うところではあるが、華麗な道中は一度ご覧になってはいかがだろう。


(取材/文=熊野水樹)


画像写真=「さくらん〜花魁音楽画巻〜」