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その女が注射器を捨てるまで 第31話

第二章⑪ 闇の中 その1

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「あたしシャブ中でした」
元覚醒剤常習犯、阿佐見玲子。
厳格な家庭に育ち、息の詰まる毎日だった少女時代。
そして男と出会いようやく幸せの糸口を掴んだかにみえたとき、魔物が心の隙に忍び込んだ。
ひとときの痛みから逃れるために手を出してしまった覚せい剤。
そこから運命の歯車は狂っていくのだった。
この物語は、そんな彼女の転落と再生の軌跡をたどった実話である。(取材/文 石原行雄)


脳が壊れていく

 幻聴は日に日に酷くなった。

 そのうちお風呂を追い焚きするボイラーの音が、刑事の声に聞こえるようになった。

「ボー」という低くくぐもった持続音が、どこをどう聞き間違うとそうなるのか、ガサ入れを前に打ち合わせをする刑事たちの声に聞こえたのだ。

「今、風呂の中にいます」
「よし、わかった。じゃあ、おまえとおまえはここで待機だ。俺とおまえは念のため、風呂の窓の下に回る」
「了解しました!」

 焦げ茶色とか濃いグレーとかの野暮ったいスーツを着た刑事が四、五人、お風呂場の壁の向こう側で、あたしが上がってくるのを待ちかまえている。

 怯えながらじっと浴槽に身を沈めていると、大量に汗をかくのもあってか、覚せい剤が体から抜けていき、そうすると冷静さが戻ってきて、「声なんかしないし、人の気配もないや」と、ようやくお風呂から上がることができた。

 けれど、あるときなどは刑事の声に混じって、賄いのおばちゃんの「外に刑事がいるから、今出てきちゃダメだよ」という耳打ちが聞こえてしまった。

 お風呂場にはあたし一人なのだから、耳打ちするひそひそ声が聞こえるわけなんてないのに。それなのに、体育座りのように、膝を抱きかかえて湯船に身を沈めて、刑事があきらめて帰るのを待った。

 どのくらいの時間が経ったのだろう? あたしはぼんやりと、おばちゃんの呼びかける声を聞いていた。

「レイ子ちゃん! いつまで入ってるの?」

 耳打ちではなく、お風呂場のドアの向こうから聞こえる声。

 また幻聴だ。

 そう思っていると、ドアをドンドンと強く叩かれた。あたしは我に返った。

「レイ子ちゃん、なにやってるの? 大丈夫なの?」

 今度は本当におばちゃんの声だった。

「あんた長いお風呂だね、いつまでもなにしてるの?」

 あたしがお風呂に入って、もう二時間も経つという。

 シャブをやって幻聴を聞いていたなどと言えるはずもなく、モゴモゴと口ごもるように謝って、そそくさと部屋に戻るしかなかった。

そして、子どもが泣きはじめた

 そのうち、雑音のほとんどない自分の部屋でも幻聴を聞くようになった。

「あそこの奥さん、覚せい剤をやってるんですって」

 どこの誰ともわからない、ご近所の奥さんがコソコソと噂話をしていた。

「まぁ、恐い!」
「しかも一緒に暮らしてる人、本当の旦那さんじゃないらしいわよ」
「じゃあ不倫?」
「そうらしいのよ。それに子供も田舎に置き去りにして知らんぷりっていう話で......」
「最低ね」
「そうよ、サイテーよ」
「最低のシャブ中ね」

 子供のことは知らんぷりじゃないよ!

 言い返そうとしてハッと気づく。

 すべて幻聴なんだと。

 いつだって子供のことは考えてる。でも、こんな生活じゃ呼び寄せることなんてできないよ......。

 やっぱり、あたしは最低だ。
 
 幻聴に思い知らされて、泣いた。

 でも、これよりも辛かったのが、トイレの換気扇の音。

「ブゥーン」という小さなファンの唸る音が、赤ん坊の泣き声に聞こえた。

 赤ん坊の弱々しい泣き声に。

 ビリビリと空気を引き裂くような勢いのある、元気な泣き声ではなくて、低くて粘っこく、弱々しい泣き声だ。

「ウァーン、ウァーン、ウァーン......」

 あたしの子供の泣き声だった。

「ウァーン、ウァーン、ウァーン......」

 あたしを呪う泣き声だった。

「ごめんね!」

 あたしは叫んでいた。

「ごめんね!」

 泣き叫んだ。

「ごめんね!」

 泣き叫びながら、床に額を擦りつけて謝った。

「本当はすぐに呼び寄せるつもりだったんだよ!」

 シャブに飲まれた自分の弱さが子供までも苦しめているのだと、回転音は訴えていた。

「ごめんね! ごめんね! ごめんね、ごめんね、ごめんね......」

 回り続ける換気扇に、シャブの効き目が切れるまで、あたしは懺悔し続けた。

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無邪気な子どもの泣き声が耳から離れなかった(写真はイメージです)


(つづく)


取材/文=石原行雄
闇フーゾクや麻薬密造現場から、北朝鮮やイラクまで、国内外数々のヤバい現場に潜入取材を敢行。
著書に『ヤバい現場に取材に行ってきた!』、『アウトローたちの履歴書』、『客には絶対聞かせられない キャバクラ経営者のぶっちゃけ話』など。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ishihara-yukio/