>  >  > 第二章⑫ 闇の中 その2
その女が注射器を捨てるまで 第32話

第二章⑫ 闇の中 その2

この記事のキーワード:
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「あたしシャブ中でした」
元覚醒剤常習犯、阿佐見玲子。
厳格な家庭に育ち、息の詰まる毎日だった少女時代。
そして男と出会いようやく幸せの糸口を掴んだかにみえたとき、魔物が心の隙に忍び込んだ。
ひとときの痛みから逃れるために手を出してしまった覚せい剤。
そこから運命の歯車は狂っていくのだった。
この物語は、そんな彼女の転落と再生の軌跡をたどった実話である。(取材/文 石原行雄)


終わりのない暴力

 イルカやウルトラマンと戯れたりして楽しかったはずの幻覚も、いつの間にか酷いものばかりになった。

 鴨居からハンガーで吊り下げた洋服が、立っている人に見えてドキッとした。

 視界の端でドアが開いたような気がして、鍵がかかっているのを何度も確認した。

 天井板のつなぎ目が隙間のように見えて、しかも、その隙間から誰かに覗かれているような気がしてしまい、イスに上り、ガムテープでスキ間を目張りした。

 楽しげに微笑みかけてくれていたイルカの目も、あたしを監視する目に変わったので、ジグソーパズルは壁から剥がして捨てた。

 幻覚や幻聴がタチの悪いものになったのには、ふたつの理由があった。

 ひとつはシャブの使用量が増えたから。

 もうひとつはミツオの暴力がますます酷くなったから。

 そのふたつに違いない。

 日曜の明け方か夜中に、遊び疲れて青い顔色で帰ってくるミツオは、いつも無言だった。

 ミツオが帰ってくる頃には、あたしもシャブを射ち疲れて、ミツオに応対するのが億劫になっていた。

「コーヒー入れてくれよ」

 たまに思いつきでリクエストされても、てきぱきと動くことはできなかった。

「おい! 聞こえてんのか?」

 言われてやっと、のろのろ動きだすあたし。それが嫌々やっているように見えたらしい。

「コーヒー一杯煎れるのが、そんなに大変なのか? あてつけかよ!」

 言い訳しようにも、口が思うように動かない。

 なにか言わないと......と焦っても、頭が働かないから言葉も見つからない。

 あたしが口を開くよりも、たいていはミツオの手が先に動いた。

 怒鳴られながら頭を叩かれた。

 叩きはじめると嗜虐心に火が点くのか、足払いであたしを倒し、馬乗りになって何度もほほを打ってきた。

 髪の毛を掴んで床に後頭部を叩きつけるのも、ミツオの得意技だった。

 前髪をわし掴みにされて、後頭部を床に打ちつけられる。ぐらりと視界が揺れる。

「おめぇ、なんとか言えよ!」

 言いながら何度も打ちつけられる。

 そのたびに、目眩。

 後頭部の出っぱりと床がぶつかるたびに「ゴン、ゴン、ゴン」と音がする。その音は、打ちつけられているうちにだんだん遠くなって、そのうち耳に水が入ったときのように「ボー、ボー」とくぐもった音になる。

 そうなると、あたしは床に背中を張りつけているのに、船酔いのように体がゆらゆらと揺れた。

 頭を打つと、痛いだけでなく、平衡感覚がなくなって気持ち悪くなった。

 硬い板の間でも、柔らかい畳でも、何度も打ちつけられると、それほど違いはなかった。

「てめぇ、バカにしてんのかよ!」

 痛めつけるのに疲れたミツオが手を離すと、抜けたあたしの髪の毛がバラバラと顔に降りかかってきたこともある。

 覚せい剤の抜け際で、反応の遅くなっているあたしは、されるがままの人形だった。

 ミツオの暴力に、心身ともに疲れ果てていた。

 ミツオに気を遣うのにも疲れ果てていた。

 この頃、夫のタカノリとは協議離婚が成立して、あたしは晴れて独身に戻っていた。

 けれど、とてもミツオに報告する気にはなれなかった。

 シャブ中じゃあ、もう一度結婚なんてできるわけがない。

 もうミツオにはその気もないだろうし......。

 離婚の報告をためらって先延ばしにするうちに、ずるずると日は過ぎて、時間が経てば経つほど「今さらなんだ!? どうしてすぐに教えないんだ?」と責められそうで気後れしてしまい、ますます報告しづらくなった。

 あたしは離婚の報告もまともにできないシャブ中だから、殴られたって仕方ない。文句を言える立場じゃない。

 せっかくの離婚成立も、ただ自分を責めるだけの材料となってしまった。

ogura_140908.jpg

出口がどこにも見えなかった(写真はイメージです)


(つづく)


取材/文=石原行雄
闇フーゾクや麻薬密造現場から、北朝鮮やイラクまで、国内外数々のヤバい現場に潜入取材を敢行。
著書に『ヤバい現場に取材に行ってきた!』、『アウトローたちの履歴書』、『客には絶対聞かせられない キャバクラ経営者のぶっちゃけ話』など。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ishihara-yukio/