吉田松陰のお墓は地味だった?
今、「吉田松陰」の名を聞くことが増えていないだろうか。
それもそのはず、NHK大河ドラマ「花燃ゆ」で井上真央演じるヒロイン・杉文の兄が吉田松陰なのだ。演じているのは様々な女性芸能人と浮名を流す伊勢谷友介なのだから、話題になって当然だろう。
実際の松陰もけっこうイケメンだったらしいが、なにもイケメンで歴史に名を残しているわけではない。幕末の思想家......といえば聞こえはいいが、当時のお偉いさんである幕府の弱腰外交を批判したあげく、幕府要人の暗殺を計画したテロリストみたいな男だったのである。そしてこんな危ないヤツは野放しにできないということで、斬首の刑になった。

刑場跡とはいうが、意外と今っぽい小塚原回向院。
その松陰、出身は長州藩つまり今の山口県なのだが、江戸まで連行されて首を斬られた。だから、墓は東京にある。今の南千住にある小塚原回向院だ。
もともとここは「小塚原刑場」という死刑執行の地であった。使用された200年ほどの間に、20万を超える刑死者が埋められたという。裁判制度など整っていない江戸時代の話だから、冤罪で処刑された者も多くいただろう。
松陰の怨霊が出ないワケ
そんな過激派の松陰なら祟りも相当ひどそうなのだが、実際にはここに松陰の霊が出るという噂は聞かれない。

吉田松陰の墓。墓地の奥まった場所にある。
というのも、実はここに松陰の遺体はもうないのである。松陰の弟子によって長州藩ゆかりの地に改葬されているからだ。そして刑を執行されたのも実際には小伝馬町の牢屋敷内だから、小塚原刑場には大して恨みがないのだろう。
しかし、この土地が大量の血を吸ってきた事実は変わらない。
日常的に死刑が行われ、おびただしい数の死体は丁寧に埋葬されることもなく、適当に土をかけられるだけだった。雨の日には土が流れて腐敗した手足が露出し、野犬やイタチが食い荒らすという凄まじいありさまだったらしい。

首切り地蔵。背後を通過するのは常磐線。
その報われない魂たちを長きにわたって鎮めているのが、延命寺の「首切り地蔵」というまんまなネーミングのお地蔵様だ。小塚原刑場のシンボルとして、血塗られた歴史を見つめてきた。お地蔵様といってもちょこんとかわいらしいものではない。高さ約3.6メートルの巨大地蔵である。
これくらいでかいお地蔵様じゃないと、ここの怨念は抑えきれないのだろう。
首切り地蔵でも手に負えないときがある!?
そしてここからが興味深い話なのだが、実は「首切り地蔵」のある延命寺と回向院はもともと同じ小塚原刑場だったのだが、その敷地内を日本鉄道(今のJR常磐線)の線路がぶち抜いたせいで、別々に独立したという経緯がある。
なんとも罰当たりな話だが、実際に小塚原刑場を荒らした罰だと語り継がれている事故が1962(昭和37)年に起きてしまった。
いわゆる「三河島事故」である。
これは、南千住駅と隣駅の三河島駅間で発生した列車の多重衝突事故で、死者160名という大惨事だ(「三河島事故」wikipediaより。参考までに、2005年の福知山線事故は死者107名)。
この事故が悲惨だったのは、不幸が連鎖して起きた点だ。信号無視をした貨物列車が脱線し、下り線の線路に進入→下り線電車が貨物列車に衝突して脱線し、上り線の線路に進入→上り電車が下り線電車に衝突して両車とも大破......と、まるで何かに誘われるかのように衝突が幾重にも連続し、列車事故史に残る大惨事となったのである。

日比谷線は事故の前年に開通した。
さしもの首切り地蔵も、このときは怨霊たちの怒りを止められなかったということか。
それでも、この刑場跡地の開発は続く。平成につくばエキスプレスの工事が行われたときには、200あまりの頭蓋骨が出土した。今もまだ、埋まったままの骨がいくつもあるだろう。そして我々はそしらぬ顔でその上を歩いているのだ。松陰が改葬されたのも、本当はこんな呪われた場所に埋められているのが哀れだったからかもしれない。
小塚原の地名の由来は、「骨ヶ原」なのだともいわれる。
(取材/文=八神千鈴)