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憂国我道会・山口祐二郎のひとりごと

京都朝鮮学校襲撃事件で在特会らが敗訴確定 カウンターは勝利をしたのか?

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差別ありきの街宣活動にしか見えない

 しかし、ここにおいて重要なのは、実行犯がヘイトスピーチをおこなって犯罪をしたこと、つまり根っこには朝鮮人を差別する意図があったことである。それが刑事では罪に問われていない。

 在特会側は、京都朝鮮学校側が勧進橋児童公園に朝礼台やゴールポストを勝手に置いて、不正に使用していたことについての抗議だとしているが、それは詭弁だ。

ヘイトスピーチの様子.jpg

朝鮮学校へのヘイトスピーチの様子(Youtubeより)

 なぜかというと、ヘイトスピーチをすることは公園使用の件とは全く関係ない。朝鮮人だからとか日本人だからとかいう問題ではない。公園使用の件で意見があるならば、朝鮮学校の子供たちにヘイトスピーチをする必要はない。公園使用のことを抗議すればいいだけではないか。

 それに、京都朝鮮学校だけでなく、グラウンドがない学校は沢山ある。そういった学校は、近隣の公園をグラウンドとして使っていることが多い。こんなことは、日本中でよくある話なのだ。

 最初から在特会側は、朝鮮学校の子供たちを差別したいだけとしか僕には思えなかった。

ヘイトスピーチは表現の自由なのか?

 日本は1995年に、「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約(人種差別撤廃条約)」に加入している。この第4条において、あらゆる差別行為、扇動を禁止している。つまりヘイトスピーチを犯罪と禁止しているのだ。

 しかし、日本は第4条において、留保という立場を取っている。それは日本国憲法で保障されている表現の自由があるからだ。日本の現行法では、ヘイトスピーチを取り締まる法律はない。差別をしても罪に問われないのだ。

 そう、在特会は、表現の自由を盾にして差別をおこなっている。だから、この卑劣なやり口を表現の自由だとせず、押さえ込んでいかないことには差別をなくせない。日本国憲法では、表現の自由が認められているが、この表現の自由は何でもかんでも自由という意味ではないはずだ。

 例えば、殺すと人にいえば「脅迫罪」になる。人を侮辱すれば「侮辱罪」になる。つまり人を脅かす自由は認められていない。そこは表現の自由ではないのだ。差別だって同様に違法として取り締まられるべきだ。在特会は人種差別をして、人の心や尊厳を傷つける行為をしているのだから。

 ヨーロッパのいくつかの国では、ヘイトスピーチ規制法がある。在特会に反対している方々の中でも、ヘイトスピーチ規制法については賛否両論あるのだが、日本も差別意識から起こった犯罪についてはきちんと対応していかなくてはいけないはずだ。

 今回、京都朝鮮学校襲撃事件の判決で、人種差別を含んだ不法行為に対して厳しい処分がくだるという判例が出たことは、とても意義があることだと思う。