>  > 新装改訂版『尼崎の一番星たち』外伝!絶讃発売中!ー尼崎の歴史ー
親分という人

新装改訂版『尼崎の一番星たち』外伝!絶讃発売中!ー尼崎の歴史ー

この記事のキーワード:
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

親分という人

《シャバは大変な事になっとるらしいやないか。兄弟の親分にお変わりはないんか?》


 こう始まった文政の手紙は、彼が何を言おうとしているのか私にはすぐ理解できた。


《でも兄弟の親分の事や。引退されとっても動じはることないわな》


 その通りだった。私が盃を受けた親分は、そんな事ではビクともされはしない。


 ただ私の中では、いいようのない悔しさだけが広がり続けていたのだった。


 親分は、17歳の時に鹿児島の甑島(こしきしま)という所から尼崎にやってこられた。
尼崎には鹿児島の人たちでつくられた県人会というのがあり、先に同じ甑島から尼崎にやってきていた血縁関係にある近松の叔父貴を頼っての事だった。


  当時、尼崎といえば三代目山口組舎弟 丸三組が支配しており、親分の渡世のスタートは丸三組の部屋住みから、という事になる。
その後、丸三組 陳三郎組長の運転手を務め、組長がどこに出掛けられても、車外に出て何時間でも待ち続けたという。それは雨が降ろうが雪が降ろうが変わりはしなかった。
  そうこうしているうちに、尼崎の街は丸三組から私が所属していた組織へと様変わりしていったのだった。


 そうした最中に間違いが起きることになる。相手は殺しの軍団と怖れられたY組であった。
 何度かの切った張ったがあったのだが、ある大物親分の取り持ちで、相手方が話し合いに訪れる事になったという。
 もちろんその時代に私はヤクザもやっていなければ、この世にまだ生も授かっていない。


 話し合いの場所となったのは、こちら側の本部。
 だがまだ納得いってなかった親分衆がおられた。
 それが後にプラチナへと昇格されていくF親分やM親分。そして私の親分らであった。
 実行犯は、最年少であった私の親分。
 話し合いが終わり、出てきたところをヤクザの仕事を見事にこなし、親分はジギリをかけられる事になったのだった。


 逮捕後に接見へとやってきた弁護士は、あまりにも名高い先生であった。


「もうええから正直に話せ。そしたらワシが君の弁護を引き受けたる」
 若き親分はこう応えた。
「ワシ一人でやりましてんっ」
と、すると先生は
「もう一回よう考えろ。また来る」
と言い残し席をたって帰っていったという。


 そして数日後、再び接見へとやってきた先生は、前回と同じ言葉を投げかけた。
 だが親分が返した言葉も変わらない。
 このやりとりは、三度続いた。そして三度目に訪れた際に先生はこう話した。


「全部正直に喋れば早く出れる。早く出れな、お母さんも悲しむぞ」
と。
 それに対して親分は口を開いた。
「親一人、子一人でずっとやってきてまんねん。人の事を、ああでもないこうでもない言うて早よ出てきてもお袋は喜びませんわ」


 これに先生が「気に入った! 弁護引き受けたる!」となったのである。


 この話を親分の口から聞かされたのは、引退される数日前の事だった。
 もちろん事務所の人間は、誰しもその事を知っていた。
 だけど私がつかえさせて頂いた親分という人は、決してそういう事を口にしない。
 自分の全ては自分が分かっていれば良い、という姿勢で政治的な事もパフォーマンスも一切望まなかった。
 だからこそ、間近でその生き様を見てきた私にとっては、引退の状を取り消し処分し直した挙句、ご丁寧にその状がメディアに流れた事が耐えきれなかった。


 その時には私もカタギになっていたので、何をする事も出来ない。いや現役だったとしても、何か出来る力などあろうはずがなかった。
 だけど私には、ペンがあった。


 メディアから流れる赤文字で記された親分の名前をみながら、「オレが物書きとして有名なって、いつかオレの筆で、どれだけ親分が凄い人やったか世に知らしめてやろう」と心に誓ったのだった。


 親分はその後もなんら変わる事がなかった。故人となられた親分衆の命日には、運転手を一人だけ連れて墓参りへと出かけた。
 その姿勢は、全く変わらなかった。


 そんな親分の事をいつだったか文政は、
「ああいう親分の事を本物の極道と言うんやろうな」と語っていたのだった。


●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)