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第4章 無間

新装改訂版 沖田臥竜Presents!小説『死に体』 第36話

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■ 第4章 無間


(七)
 同じ朝が、こうまで違うか、というくらい、金曜日と土曜日のギャップは素晴らしい。一歩間違えれば、その日が命日となってしまう金曜の朝と、殺しが実行されることのまずない免業日の朝では、スズメのさえずりさえも、なんだか陽気に聞こえてくる。
 どの住人もそれは同じらしく、いつもはギスギスとしたオーラを醸し出し、フロアいっぱいに重たい空気が沈殿しているのが常なのに、この日ばかりは、放たれるオーラもなんだか柔らかい。
 夜勤担当の刑務官を捕まえては、冤罪を熱弁するのがクセになってしまっている横山のやっさんのしわがれ声も、普段なら至極、耳障りでうっとうしくこびりつくけれど、今朝はほのぼのと拝聴し、苦笑いを浮かべることまで出来てしまう。
また言ってることが違ってるよって、オレは横山のやっさんの誇大妄想を遠い耳にしながら、襟を正して般若心経を唱えた。
 般若心経を唱える日が、少しずつ増えていく。
 冥土へと旅立ってしまった人、旅立たせてしまった人のために、オレは何もできないけれど、せめて命日には、般若心経を故人のために唱えることにしていた。みどの命日にも、浅田のおっさんの命日にも、そしてこの手で命日にしてしまった人たちの日にも、オレは一人でボソボソ唱えた。
唱え終わった後、もう今日で、あの日から12年の歳月が流れたのかと改めて思い、時の流れの早さにしばしオレは戸惑った。
 12年前の今日。オレは初めて人を殺した。
 その殺しで10年の刑を務め、出所後、また新たに2人を殺めてしまい、こうしてここで首を括られることになったわけだが、いまだに信じることができない時がある。
 泣き虫で、人よりも甘ったれで、いつも母のスカートの裾を握りしめていたこんなオレに、ぬいぐるみを抱いて寝ないと眠れなかったこのオレに、3人もの人を殺めてしまったということが、どれだけの月日が経っても信じきれなかった。むしろ、月日が経てば経つだけ、なにかの間違いなような気がして仕方なかった。
 12年前。
 あの日も確か土曜日だったと思う。最悪の夜だった。最悪の思い出として、後の人生に残ってしまった。
 当時、同棲していた彼女は、その日の1週間前から実家へと帰っていた。
 オレに何が足りなかったかといえば、もちろん多くあるけれども、一番は我慢するということだったかもしれない。ひとつが駄目になってしまうと、我慢して踏ん張ってみせることがオレにはできない。これまで積み上げてきたもの、頑張ってきたことが、たったひとつの失敗や、少し思い通りにいかなかったというだけで、すべて破壊してしまう癖があった。破滅させなければ気が済まない癖まであった。結局、我慢が足りないのだ。
 ささいなことが重なって、オレに心底、愛想を尽かした彼女は、一切の未練など持たずに実家へと帰っていった。これで確か4度目だったと思う。前回の時に最終勧告を言い渡されていたので、オレは、もうこれで終わってしまったと絶望的になっていた。
 若かったし、随分とバカだった。
 その彼女とは、17歳から20歳までの3年間を一緒に暮らしていた。ケツの青くさいガキがよく陥ってしまうように、彼女以上の女性などこの世に存在しやしない、という幻想にオレもどっぷりと陥り、途方に暮れてしまった。
 家の中が上手くいっていなければ、男は外で思いっきり働くことができないという。もしも、彼女と上手くいっていれば、危っかしいオレの性格も破綻することなく上手くすり抜けていたのだろうか。
そこからオレは破れかぶれとなり、取り返しのつかない事件を犯してしまったのだった。
 
彼女は最初、強く拒否した。電話越しにも、嫌悪感を隠そうとしなかった。「どうしても話があるから」と言っても、「どうせ、またやり直そうって言うだけやろっ」と取りつくしますらどこにもなかった。
 オレは泣き出してしまいそうだった。そんな事を言うことが出来れば、どれだけ幸せだっただろうか、と考えると泣きそうになった。
彼女の冷ややかな声を聞きながら、「やり直そう」とか、未練たらしい話すらできない自分が哀れだった。
 散々、違うという事を訴え続け、もう二度と付きまとわない、これできっぱり別れる、時間は1時間、という条件をつけられ、ようやく彼女と会う約束を取り付けた。
 オレは彼女を助手席に乗せて、あてどもなく車を走らせた。
「話あるんやったら、はやく言いやっ」
 いつからだろうか。彼女がこんな顔をオレに見せるようになったのは。
良い思い出ばかりを追いかけていた。
 もしかしたら、また少年時代に事件を引き起こした事件の時ように、「一緒に逃げようっ、ねえ一緒に逃げようっ!」なんて言ってくれるのではないか、と淡い期待がどこかにあった。
 3年間も一緒に暮らしているのだ。この歳にもなるとたかだか3年だが、ハタチの頃のオレにとっては、3年間と言えば、果てしないほどの時間を共有してきた、と思い込んでしまうだけの歳月があった。
 一時的にすれ違うことはあっても、いざとなれば、心はガッチリ繋がっていると信じたかった。
でも、その声の色からは、オレが17歳のオレではないように、彼女もまた「一緒に逃げようっ、ねっ!一緒に逃げようっ」と言った時の彼女では、なかった。


 1時間近く経っただろうか。押し黙ったまま車を走らせていたオレは、赤信号で車を停車させた。
 彼女は、いきなり助手席のドアを開け、「話しないんやったら帰らせてよっ!」とヒステリックに叫んで、車から飛び出していきそうになった。
「ちょっと待ってって」
オレは彼女の腕をつかんだ。惨めだった。世界で一番、惨めな気がした。
「離してよっ!もう1時間経つやんかっ!帰らしてよっ!」
「まだ話し終わってへんやんけっ!」
「だから何よっ! さっさと話ししいやっ!」
「そんな言い方しとったら話されへんやろうがっ! ドア閉めろって」
 やはり世界で一番惨めだった。彼女はすべての鬱慎をドアを閉めることで晴らすかのように、怒りを込めて力一杯ドアを閉めた。
「早よ言いやっ!」
 もうやけくそだった。
 どうにでもなれ、と思った。
 話した。人を殺してしまったことを。この手で人の命を奪ってしまったことを。
彼女の目は、心底オレを見捨て切った目をしていた。
 けれど、オレの性格を危うんで身の危険を感じたのだろう。オレを刺激するようなことはなにも言わなかった。もうこの時は、それくらいオレは彼女に嫌われていた。そんなこともわからないオレは、やはりどこまでいっても世界で一番惨めな男だった。
「いっしょに、、、一緒に逃げてくれへんか、、、」
 彼女がオレのことを愛してるとか、もうどうでもよかった。オレは彼女の憐憫の情に訴えかけた。
世界で一番惨めなオレは、世界で一番、大バカヤローでもあった。
 彼女は、躊躇した表情を作った後、「少し考えさせて欲しいっ、、、」と呟くように答えた。
 ヤクザ者という、人の言うことをある意味、疑うことを生業にしているくせに、自分の都合のいいことだけは額面通り受け取ってしまう。その癖は、今も昔も変わりはしない。
 どこかに車を停めて、ゆっくり話し合おうという彼女の提案で、近くのコンビニの駐車場に車を停めた。
 彼女は、コーヒーを買ってくると言って、逃げるようにコンビニの中へと駆け込んで行った。後でわかったことだが、この時、彼女は警察に通報していたのだった。
 当たり前といえば、これほど当たり前なことはない。
 誰が人殺しと成り果てた、好きでもない男と逃亡生活に入り、自ら花よ唄よの20代を棒に振らなければならないのだ。女の一番輝かしい時間を、殺人者となったオレに託すほどバカなことはない。ハズレ馬券に大金をぶち込むようなものだ。誰だって愛想尽き果てるだろう。
 気付いた時には、警察官に囲まれていた。
「お、お前っ」
「こうするしかなかってんよっ、ねっ!杏くん、償って帰ってきて!ねっ、お願いっ!償って帰ってきて!」
 彼女の潤む瞳を見て、もうええかと車のドアを開け、踊りかかってくる警察官のお縄にかかった。
 絡め取られていく最中に垣間見た彼女のホッとした表情と、コンビニのネオンライトがやけに眩しくて、いつまでもオレの脳裏に焼きついていた。
 空から舞う、粉雪がやたら綺麗で、目に痛かった。
 彼女とは、あの夜を最後に会っていない。
 どこで、どうしているかもなにも知らない。
 惨めな男の惨めな未練は塀の中まで持って行き、惨めたらしく何年も引きずった。
 それがある日を境に、何の前触れもなく、毎日といいくらい見ていた彼女の夢を見なくなっていった。
 忘れてしまいそうな彼女の笑顔。彼女の声、彼女の面影を、忘れてしまわないように必死に抗い続けていたのを、忘れてしまおうと思い始めたのは、10年の刑期を半分乗り越えたあたりだったと思う。
 オレは最悪だけど、人として最低だけど、彼女を愛した気持ちは本当だった。愛し方が人より下手くそだったと思う。人より不器用だったと思う。最後には、それがハタ迷惑にさえなってしまったと思う。いや、なってしまった。それでも、オレなりに一生懸命、彼女を愛したことだけは、本当だった。
 10年の刑期を務め終え、社会に復帰した時には、もう彼女のことを思い出して胸が張り裂けそうになることはなかった。
 ー 「はいっ、新聞なっ」
回想していた旅路を、担当の声が遮断させた。
オレは昨日、交付された新聞を差し出し、代わりに今日の新聞を受け取った。
「めちゃめちゃ、さぶいですねっ」
普段は余り口をきくことのない交代担当だったが、土曜日という免業日が、心を穏やかにさせてくれているのか、人間らしい軽口が気安く口から出ていった。
「なんやっ、今日は雪が降るらしいでぇ。ごっつい今晩冷え込むらしいから、伊丹も風邪引かへんようになっ」
担当の僅かな言葉の中には、気遣いのある温かみがこめられていた。
人と人の関係とは、得てしてこういうものなのかもしれない。こちらが愛想よく話しかければ、相手もそれにこたえてくれる。中にはこちらが愛想よく話しかけても、つっけんどんな態度で返したり、そっぽを向いたりする者がいるので、人は初めて話しかける相手に、戸惑いや躊躇といった構えを見せるのだろう。
相手がどういう対応をとるかなんて、そんな打算的なことを一切気にせずに、喋りかけたり笑い合えたり出来た少年時代が、何も知らない分、幸せだったのかもしれない。
「雪ですのっ。道理で寒いはずですわっ」
あの夜の雪を、もう彼女は覚えていないだろう。もしかしたら、最悪な記憶として、トラウトとなり覚えているかもしれない。それならば、オレのこともすべて思い出ごと忘れ去って欲しかった。
今回のオレの事件を知った時、彼女はなんて思っただろうか。こんな落ちぶれ果てたオレを見て、彼女はなんて思うだろうか。
オレの人生なんて笑えやしない。でもあの夜から、ずっと不幸だったかといえばそうではなかった。オレは大がつくほどのバカだから、自らそれをぶち壊してきたけれど、ちゃんと幸せな時間だって、オレにもちゃんとあった。
短い期間だった。彼女と暮らした3年には到底及ばない短い期間だった。でも彼女との3年の思い出をすべて記憶から消し去ってしまっても、ゆまとゆきちと過ごした社会での短い記憶だけは、誰にも奪われたくなかった。
その記憶が思い出として心の中にしまってあるから、かろうじてでもこうして人間として生きていけてるのだと思う。
今日、降るという雪を彼女もどこかで誰かと見上げたりするのだろうか。
そんなことを静かに思った。


●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)