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ー始まりの合図ー

『尼崎の一番星たち』出版記念!男たちの物語は続く

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ー始まりの合図ー

 ゴールデンウィークが明け、いつものように親分は本部から本家へと出かけていった。
 私は、若頭代行を預かっていたので、その姿を本部で見送っていた。
 大型連休期間は、地域住民を配慮して本家は休みに入る。そして、その連休が明けるとプラチナの親分たちは全員、本家へと招集され、本家親分に挨拶するのが、恒例だった。
 親分が乗り込んだレクサスを見送った後、私は当番責任者に迎えに出られないことを告げた。
 本来ならば、本家から帰ってくる親分を本部で迎えるのも執行部の役目だったが、この日どうしても外せない社長との会談が市内で入っていたのだ。
 市内で行われた会談は、順調に終わり会談相手の社長と雑談している時だった。本部から私の携帯電話に連絡が入った。
 腕にはめている時計は、2時半を指している。ちょうど親分が本家から戻ってこられている時間帯だ。


<代行、忙しいところすんません。親分が手ェ空いてる時に本部覗いてくれ、言われてはります>


 私はこの一言で、ある程度の覚悟をしていた。
 すぐに行くと言って、私は本部からの電話を切った。
「社長すまんっ、ちょっと行かないかんようなったから行くわ。今日のこと頼むわな」と言って席を立った。
 本部へと入る前に、私は自宅のマンションに寄ってスーツを着替え直した。私なりの正装の意味合いがあった。


 本部に入ると、当番者や居合わせた組員たちが立ち上がり、頭を下げて挨拶してきた。
 私もご苦労さん、と返し、居合わせた直参に尋ねた。
「親分は?」
「組長室におられますっ」
 どの顔もそれを覚悟している表情に見えた。
 私は、3階に上がり組長室のドアをノックした。
「ご苦労様です。沖田です」
「おっ、入ってくれ」と親分の声が中から聞こえてきたので、失礼します、と言いながら組長室のドアを開けた。
 ドアを開けて組長室に入って見た親分の表情は、何だか晴れ晴れしているように見え、予感が確信に変わった。
 私は親分に促され、親分の真正面のソファーに腰を下ろした。
 深々とソファーに身を沈めていた親分が、おもむろに口を開いた。
「沖田、お前にも相談しよか思ったんやけどな、今日、本家で引退するて言うてきたわ」
 親分の声色はいつにないくらい穏やかだった。
 覚悟していたこととはいえ、言葉で現実に聞くのでは実感が違う。
 思わず私は目を伏せた。
 脳裏には様々な事が走馬灯のように駆け抜けていた。
 ヤクザを止めようと考えたのは、一度や二度ではない。それだけ、世の中がヤクザを受け入れなくなってきている。いつかは私もカタギになるだろうと考えていたのだった。
 それでも、渡世にゲソつけて16年。塀の中で過ごした時間も含め、自分はヤクザなんだと言い聞かせて生きてきたのだ。カタギになる自分が想像できなかった。
それが今終わろうとしている。膝の上に置いていた拳を私は無意識の内に握りしめていた。
「親分、私らが頼りないばっかりに申し訳ありません......」
 私はそう口にすると、唇を噛んだ。
「何をいうてんねん。お前はようやってくれた。ワシとカシラが留守してる間はホンマにようやっくれた。ホンマはな、死ぬまで現役を考えてたんやけど、こんなご時世や。お前らの辛そうな顔をもう見てらへんしな。ちょうど節目の七十を迎えたから、引退を決めたんや」
 人情味のある親分だった。躾けにとにかく厳しく、ヤクザとしてというよりも、人として生きて行くにはどうしたらいいのかということに一生懸命の人だった。
 親分の教えがあったからこそ、どうしようもなかった自分が、少しはましな人生を送れるようになったのだと思う。
 熱いものが目頭に込み上げて、今にも噴き出してしまいそうだった。私は泣き出しそうになっていたのだろうか。なぜなんだろう。何故か悔しかった。
「沖田、お前はもう好きな道に行ったらええ。ヤクザ続けたいのやったら、ヤクザを続けたらええし、カタギなりたかったらカタギになったらもうええぞ」
 どこまでも親分の声は優しかった。
 私は下げていた視線を上げて、口を開いた。
「親分が引退されはるんやったら、私もカタギにならせてもうても構いませんか」
 親分は満面の笑みを浮かべ、頷いてくれたのだった。


「オカンか。今日で親分が引退される事なってな。オレもカタギにしてもうたわ」
 組長室から退室した私は、本部の外に出て母親に電話をかけていた。
<あんたは、もうそれでええのかっ?>
「かまへん」
 電話の向こうから安堵のため息が漏れてきた。
<もうそれがええわ。ホンマに安心した。それがええわ。ひかちゃんにも電話したんか?>
「まだや。今から電話する」
<早よ電話したり。お母さん、ホンマに安心したわ。ホンマに安心した......>
 21歳で人を殺めてしまい、踏みはずせるだけの道を踏み外して私は生きてきた。そんな私を母は何度も見捨てようと思ったはずだ。
 それでも母は、見捨てなかった。《あんたは鬼の子や!》と書き記した手紙を刑務所に座る私に送りつけてきたりもしたが、母は見捨てなかった。
 受話器の向こうで、母は──安心した、ホンマに安心した──という言葉を繰り返していた。
<沖ちゃんは後悔せえへんの?>
 ひかも母と同じ意味合いの言葉を受話器の向こうから尋ねてきた。
「ああ。後悔せえへん」
 ヤクザをやっていることを、お母さんのえりちゃんと長姉のゆまちゃんに知られてから、ひかは実家との縁を切られていた。それでも一度たりともひかは愚痴めいたことを口にしたことがなかった。
「近いうちに、えりちゃんとゆまに挨拶しに行こう」と告げて、私は電話を切ったのだった。


「おう! 兄弟!」
 その声で文政がすべてを察していることが分かった。
 留置場の面会室。アクリル板の向こうに座る文政は笑顔だった。
「兄弟。オレ、カタギなったど」
「おう、赤シャツから聞いとる。親分も引退されたらしいの。でも兄弟、親分はどこまで行っても親分やろ?」
「そうや。引退しはっても、オレの親分は親分だけや」
「ほんなら、なんも変わらへんやないか」
 豪快な男だった。彼には、カタギだから、とか、ヤクザだから、とか関係なかった。
「で、これからどうすんねん、兄弟?」
「とりあえず、働きながら小説家を目指すわ」
「おう、それやったらワシを主人公になんか書いたらんかい。文政ファミリー全員に買わせたるから、売れること間違いなしやど」
「ああ、兄弟の悪行を全国にオレの筆で広めたるわ」
「何をいうとんねん!」と、文政が答え、笑いあった。
 ヤクザとしては、私なんか何も歴史に足跡を残せなかったのかもしれない。
 だが、確かにそこで生きてきた。生きてきた時間があった。
 ヤクザの道を選んだことに後悔もなければ、カタギの道に戻ったことも後悔はなかった。


 カタギになって1週間後。私は知り合いの社長に頼み、人生で絶対やることはないだろうと考えていた現場仕事に出ていた。
「沖田さ~んっ!休憩してくだ~さいっ!」
 私は「は~いっ!」と答え、作業の手を止め、首に巻いていたタオルで額の汗を拭った。
 ここから始めよう。先のことなんてどうなるか分からないけど、ここから始めよう。
 そう思いながら、ポケットからタバコを抜き出し、咥えたタバコを火をつけた。
「悪ないやんけっ」
 ヤクザで修業してきたお陰で、大概のことは辛抱できるはずだ。人生はまだまだ続いていく。


 どこまでも広がる青空に向け、私はゆっくりと紫煙を吐きだした。


●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)