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〜カセットテープ〜

小説「忘れな草」第37話 沖田臥竜

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〜カセットテープ〜

平成5年9月


夏といえば、やはり7月、8月がメインであろう。
だけどオレは9月も充分、夏と呼べるのではないかと思う。
何も暑さは7月、8月だけのものではない。
この年の9月も7月、8月顔負けの暑さが続いていた。

幸せの時間というのは、案外その時には気付かないものかもしれない。
通り過ぎ、時間と歴史がくわわって、歩いた道を振り返った時に、ああ、あの頃は幸せだったなっと、気がつくのではなかろうか。
でもオレはこの時、確かに気付いていた。
今、自分が幸せという場所のど真ん中に立っているコトを。
臆病なオレはいつだって、すぐに不安になってしまう。
嫌なコト。たとえば、ちょっとでも不幸なコトが続くと、このまま一生よいコトなんておこらないんじゃないかと、思考がすべて後ろ向きになってしまう。
逆の場合だってそうだ。
よいコトが続いて、その幸福に気付いてしまうと、突如としておそろしくなってしまうのだ。
その幸福が崩壊してしまんじゃないかと、怖くて
怖くて仕方なくなってしまうのだ。
怖さのあまり、その幸福を自らの手で破滅させてしまうコトだってある。
幸せになれば落ち着かないし、不幸だからといって、もちろん落ち着く訳ではない。
表裏一体。いつも不安が心の中に貼りついていて、ぬぐってもぬぐいきれない不安を抱え込んでいた。
だけど、この時だけは違った。
見るもの、聞くもの、触れるものすべてが輝やいていて、不安なんてどこにも見当たらなかった。
樹愛とだったら、どんな奇跡でも巻きおこせそうな、そんな気がしていた。
地球上で一番2人が輝いている、そう感じていたかもしれない。


想いをとげた七夕祭りから、樹愛はオレの彼女になった。
今までとは違う仕草。今までとは違う声。初めて見せてくれる表情。愛の言葉を語らずとも、オレはそんな一つ一つにドキドキさせられていた。
未来のコトなんてまだ何もわからなかったけれど、もしこのまま樹愛と結婚して、二人の間に子供が生まれ、同じ時間を樹愛と共に歩いて行くコトができたなら、オレはもう他に何も神様に望みはしないと思う。
そんなコトを十七歳の胸の中で漠然と夢見ていたた。

「なーんもないねっ」
樹愛は六畳一間の部屋を見回しながら、微笑んだ。
嬉しそうに樹愛が微笑むので、オレも「なーんもないなっ」と笑ってこたえた。
かりたての部屋の中には、風呂はもちろん、冷蔵庫もテレビすらなかった。
あるのはCDラジカセと何本かのカセットテープ。それにボストンバッグが二つだけだった。
だけど目には見えない青くさいものは、部屋のいたる所で輝いていた。
大人になればなるほどハナで笑ってしまうような青くさいもの、言葉にすれば、愛とか夢とか未来とか。
そんなものがこの部屋の中には、ぎっちりとつまってあった。
なーんにもなかったけれど、なーんにもいらなかった。
何よりも大切なものはちゃんと掌の中にあったし、樹愛がいてくれたらそれだけでよかった。
そんなコトを本気になっていえる恋をオレはしていた。

「あっ、これあれやん。アタシが中学ン時、いっちゃんにあげたテープちゃうん。なっつかしいっ。まだもっとったんやぁ」
樹愛は床に転がっていた一本のカセットテープを手にとって驚いてみせた。
そのテープには一樹愛sベスト-と樹愛の字で書かれてあった。
テープがのびてしまうまで、繰り返し何度も聴いたカセットテープだった。
離れていても、このテープを聴けば、樹愛とどこかで繋がっている気がしていた。
どれだけ離れていても、樹愛のコトをそばで感じるコトができた。
樹愛とこうして一緒に暮らすまで、唯一オレと樹愛を繋げてくれていたのが、樹愛がくれたこのカセットテープだった。
オレにとっての宝物。

樹愛がラジカセにカセットテープを差し込み、スタートボタンを押した。
何もない部屋にまた一つ愛がくわわった
「なぁっ樹愛、なんであの時オレに喋りかけてきたんっ?」
-まさか、あんたもオレのコト好きだったとか。なんちゃってー

オレはずっと今まで心にしまっていたコトを一つ取り出し、言葉に出して、樹愛に確かめてみた。
恋する乙女はささいなコト。本当にそれは小さな小さな出来事を大切にして、心の中にしまっている。
たとえば、それは初めて視線があった瞬間とか。初めてかわした会話とか。愛してる人が初めてくれた愛のサインとか。
相手が忘れてしまったり、気にもとめていないコ
トを大切に覚えていたりする。

「あの時って?」
流れるラブソングに合わせて、口ずさんでいた樹愛は、キョトンとした顔をオレに向けた。
「ほらあれやんっ。初めてオレに喋りかけてきた時、渡り廊下で。あんた樹里やろう、アタシも樹木の樹っていう字に愛って書いてとか、なんとかゆうて喋りかけてきたやん」
「ああっ、中3の時ねっ」
中2だよ。心の中で突っ込んだ。
「それがどしたんっ?」
「だから、なんであん時いきなり喋りかけてきたんかなっ、思ってな」
キョトンとさせていた顔を一層キョトンとさせた
樹愛は、
「別にたいした理由とかなかったんちやうかな。何となくゆうか、気まぐれやったんちゃうん。あんま覚えてへんけど」
と、答えてくれ、またしばらくすると、歌の世界へ戻っていった。
メロディーに合わせて口ずさむ樹愛をみていると、どうも照れ隠しで「気まぐれ」などと、取り繕って見せたのではなく、本当に「何となく」だったのねっと察するコトがてきた。
思い出をすぐに自分の都合のよいように美化させてしまうクセのあるオレは、樹愛の悪気ない本音を聞き、がっかりしてしまった。
恋する乙女は小さなコトにでも傷ついてしまうの
である。
「ちょっと、なんかじっちゃんっへこんでないっ?」
「へこんでへんわっ。なんで理由もないのにへこまなあかんねんっ」
「今度はなんか怒ってるしっ。へんな樹里ちゃん」

樹愛といると、ささいなコトでへこんだり、ささいなコトで飛び上がったり、オレは忙しかった。
樹愛といれる、たったそれだけで幸せだった。

七夕に結ばれた恋は、2ヶ月の時を得て、2人を一つ屋根の下へと導いてくれた。


六畳一間の安アパート。
オレにとっては忘れられない「神田川」だった。
古い階段ミシミシ揺れた...


●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)