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相撲は国技ではない

横綱日馬富士が平幕の貴ノ岩に暴行した事件について沖田臥竜の視点

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相撲は国技ではない

藪から棒ではあるが、私はシブい小学生であった。場所中はどれだけ遊びに夢中になっていても、5時45分までには家路に着き、TVで結びの一番を観戦するほど、シブい小学生であった。
当時、応援していたのは父親の影響で大横綱、北の湖であったのだが、横綱引退後は、北の湖の弟弟子となる大関北天佑を応援し続けていた。
北天佑はここ一番に弱く結局、横綱に昇進することは出来なかったが、それでも当時、無敵を誇った横綱千代の富士との一番だけは、館内を沸かせるほどの闘志剥き出しぶりであった。
どうして千代の富士に対してだけは、そこまで闘志を剥き出しにしていたのか。それには理由があった。
北天佑には弟がいた。弟は千代の富士に憧れていた。そして力士となり千代の富士がいる九重部屋へと入門したのだが、そこで俗にいう「かわいがり」という厳しい稽古を千代の富士から受けたのだ。
それは愛の鞭であったかもしれない。
だがその千代の富士からのかわいがりで、北天佑の弟は片耳の鼓膜が破れるアクシデントに見舞われてしまった。
それがきっかけで、北天佑の内に秘めた闘志に火がついたのだ。
対横綱といえども、千代の富士相手にだけは、北天佑は引かなかった。負けた時には、心底、悔しそうな顔をして、土俵を降りていく北天佑の表情が今でも脳裏に思い浮かべることが出来る。

座布団一枚違えば、立場が全く異なる角界において、横綱という立場は絶対的な存在であろう。
加えて、同国の先輩ともなれば、それも尚更だったはずだ。
その上で思うことは貴乃花だ。マスコミが騒ぎ立てるように親方である貴乃花に私も向いてしまう。
我が家の子が、いわれの無い暴力を受けて帰ってくれば、親が怒るのは当然だ。逆に言えば、親が怒らないで誰が怒る。
貴乃花の憤る気持ちは誰しも理解できるだろう。
貴ノ岩に被害届を出させたことを事前に相撲協会に報告しなかったのも、協会の体質。隠蔽を危惧したのではないか、というところも分かる。
それでもだ。同じ横綱を張った大先輩として、なぜ被害届を提出させる前に、日馬富士の行いを諌めなかったのか。
呼び出してカマシあげてやっても良かったではないか。相手の親方に「どういう教育をしとんじゃ!」と乗り込んでも良かったのではないか。
その上で隠蔽されるならさせれば良い。
その代わり部屋の力士たちを集め、「ええかお前らよう聞けよ。日馬富士のガキだけには、絶対負けて帰ってくんなよ!横綱やからって遠慮なんかすんなよ!」と叱咤激励し、土俵の上で貴ノ岩の仇を取り行かせれば良かったのだ。
ケースは異なるが、北天佑は男だった。ウチに秘めた闘志を燃やし続け、何度も何度も千代の富士にぶつかっていった。
人はそこに熱いものを滾らせるのである。ドラマを見るのである。感動を与えられるのである。

無論、暴力は如何なる場合も許されることではない。だが闘う土俵があったのだ。その土俵は、警察か。そうでないだろう。土俵の上で、日馬富士を追い詰めることもできたのではなかった。

実のところ、相撲は国技ではない。厳密にいえば日本に国技は存在しない。そりゃあそうではないか。
相撲が国技であれば、これだけモンゴル勢に席巻されていては、具合すこぶる悪いではないか。
国民の感覚として、相撲を国技とみてしまっているので、番付最高峰に位置する横綱にどうしても品格を求めてしまうが、それはタニマチといった周囲にも多少問題あるのではないか。
もてはやしぶりが、品格よりも傲慢さを生み出してしまっているような気がしてならない。

日馬富士とまだ改名する前の安馬は、身体も小さくみえ、こんな線の細い力士で大丈夫か、と思っていたのだが、違う意味で大丈夫ではなかったことになるとは思いもしなかった。


●沖田臥竜(おきた・がりょう) 元山口組二次団体最高幹部。所属していた組織の組長の引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。以来、物書きとして活動を始め、著書に『生野が生んだスーパースター 文政』『2年目の再分裂 「任俠団体山口組」の野望』(共にサイゾー)。最新刊は『尼崎の一番星たち』(同)