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菱カーテンの向こう側~追憶の猛者たち~前編

菱のカーテンの向こう側 ~追憶の猛者たち~前編

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菱のカーテンの向こう側

~追憶の菱の猛者たち~ (前編)
文/R-ZONE編集部


 分裂後の最新状況を取材していると「最新ではないが、非常に興味のひかれる話題」が飛び出してくることも少なくない。


 昭和五○年代。山口組中興の祖、三代目田岡一雄組長が襲撃されるという事件が発生した。
世に言う「ベラミ事件」である。この時の山口組の松田組への報復(=返し)は熾烈を極めた。
これが現代でも語り継がれる一大抗争事件、大阪戦争(一九七五~一九七八年)である。
 
その抗争で身体を賭けて、長期刑に服した功労者の一人に、現在の神戸山口組のトップである井上邦雄組長がいる。


 懲役一七年の判決を受けた井上組長は徳島刑務所に収監されるのだが、今回、話をきいた某二次団体の元若頭A氏も、同じ時代に同じ場所で刑務所生活を送っていた経験を持っている。


 A氏によると、当時の徳島刑務所には、そうそうたるメンバーが勢ぞろいしていたという。


「当時の徳島には、有名な親分衆がたくさん収監されされていました。井上親分はもちろん有名でしたし、すでにプラチナ(=直系)に昇格されていた初代古川組 古川雅章組長もおられました」(A氏)


 古川雅章組長とは、一昨年暮れに六代目山口組から神戸山口組へと移籍をはたした、三代目古川組の初代である。


「古川の叔父さん(編集部注・直系団体の若頭は他組織の直系組長を"叔父さん"もしくは"叔父貴"と呼ぶ)も、最初は一般の生産工場に配役されていました。
その工場で、地元組織のI会の組員が叔父さんに口答えしてしまったんですよ。もう一瞬でしたね。どの工場にも山口組関係者は大勢服役していましたから、一瞬でI会の組員は、三人がかりでボッコボコですよ。
それで、刑務所側も古川の叔父さんを工場に配役させていれば、その影響力を抑えきれないと判断し、工場へと配役させず、独居拘禁の処遇に切りかえました。ただ、この出来事は、瞬く間に各工場の山口組関係者に広まり、『I会の関係者がいれば、すべていわしてしまえ!』というハト(伝言)が飛びました」(A氏)


 I会からすれば、たまったものじゃないだろうが、それだけ当時の徳島刑務所には、多くの山口組関係者が収監されていたということだろう。


「井上の親分や古川の叔父さん以外の有名どころをあげていくと、神戸山口組織田絆誠若頭代行(現、任侠山口組代表)五代目健竜会中田広志会長(現、四代目山健組若頭)。それから四代目山健組で若頭を長らく務められていた山本國春会長(引退)。
 六代目山口組で言うと、後の豪友会会長になる加藤徹次会長。それから故人となられた倉本組の組長となる河内敏之組長。
同じく倉本組最高幹部を務め引退された木崎進氏などがおられました」(A氏)


 徳島刑務所は、いわゆるLB級刑務所。暴力傾向の進んだ、刑期八年以上の者を収容する刑務所であり、懲役一五年、二○年の猛者がゴロゴロいると言われているのだが、それにしてもそうそうたるメンバーではないか。


「まず、健國会の初代山本会長ですが、私は一緒の工場になってませんけど、人柄や評判は抜群でした。井上の親分が大阪戦争で指揮官として手腕を振るった訳ですが、その時に逮捕された山本会長からも、大阪府警は、井上の親分の名前を出させたかった。
当時の大阪府警の暴力(=捜査四課)の取調べの苛酷さは、今の比じゃないですからね。かりに山本会長が井上の親分の名前を出せば、親分は二度と刑務所から出られないのではないかとさえ言われていましたから、大阪府警の意気込みも半端じゃなかったらしいです。
 それでも山本会長は、口を割らなかった。酷いヤキにも絶えぬいて、山本会長で食い止めた。
 そりゃ、お二人の信頼関係は揺るぎないものになりますよ」(A氏)


 井上組長が山健組の組長に就任(二○○五年)してすぐ、妹尾英幸若頭の後任として山本会長を新若頭に抜擢したのも、頷ける話である。


「次に織田さんですが、この人のことも官側は相当警戒していました。まだ、二○代後半だったと思うのですが、刑務所につながれたまま倉本広文初代が倉本組若頭補佐に任命したくらいですから、極道としての評判は、昨日今日に始まったものではありません」(A氏)


 六代目山口組分裂後、一躍時の人となった織田若頭代行(現、任侠山口組代表)だが、若くしてその名を極道界に轟かせていたという。


「ちょうど、織田さんが在監中に外では中野会事件(一九九七年)が起きたんです。織田さんは、中にいる自分の配下にガテ(=メモ書き)を飛ばした。内容は、中野会関係者を殺る、というものだったと当時の刑務官が言っていましたが、そのガテが官側の知るところとなってしまうんです。
 普通の懲役であれば、不正連絡というカドで一○日も懲罰を座れば済む話ですが、織田若頭代行の場合は、そうならなかった。


 ── 金(織田)ならやりかねん!──と震え上がった官側によって、ただちに旭川刑務所に不良移送されてしまった、と聞きました」(A氏)


 当時二○代の青年の一言で、ベテラン刑務官が真っ青になって震え上がってしまったというのだから、どれだけ徳島刑務所が当時の織田若頭代行(現、任侠山口組代表)を警戒していたのかがわかるエピソードではないか。


「織田さんは出所後に縁あって、健竜会に行かれるのですが、その時の健竜会の会長が井上の親分です。
 健竜会若頭補佐で迎い入れるという話を織田さんは断り、『末席から自分の力で登って行きます』と言われたと聞きましたが、結果は皆さんのご存知の通り、瞬く間に登りつめました」(A氏)


 その生き方は、まさに有言実行である。真似しようにも、誰にも真似できるものではない。


「当時の組織名は、まだ織田興業だったと思うのですが、まず井上の親分の警護にあたるために自ら車の免許を取得したと聞かされました。自ら井上の親分の車のハンドルを握るために、ですよ。極道としての姿勢が違います。
 そして、組織名も織田興業から、井上の親分の名前の一文字をいただいて邦尽会と改められたという話です。
 織田さんの下には、現在、何百人もの組員がいると聞いています。昭和ならまだしも、今の時代にですよ、たった数年で組員を数人から何百人の大組織に誰ができますか? それをやってのけたのですから、若い世代の山口組組員は、織田さんに憧れを抱いているんじゃないでしょうか。それこそ、敵味方問わずにね」(A氏)


 そんな織田若頭代行(現、任侠山口組代表)が若いころから連れていた筋金入りの配下たちが、現在は山健組の大幹部として屋台骨をしっかり支えているという。神戸山口組の動きを伝えるニュースに、しばしば彼らの名前が出ていることが、そのことを証明している。

(文・RーZONE編集部)

現在発売中「菱のカーテンの向こう側」(サイゾー)に収録。