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連載小説『死に体』最終章

第56話 母と息子

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連載第56回 最終章(四)


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 金曜日だった。

 オレのもとへ死神がやってきたのは、やはり金曜日だった。

 もっとうろたえて、見苦しさをさらしてしまうと思っていたけれど、割合、オレはシャンとしていた。

「スリッパ持って出てきてくれるか」

 死神の声を聞きながら、今、こうして生きているこのオレが、まさか目の前の担当たちに殺されてしまうなんて、どれだけ考えても現実味に欠けた。

 言われるがままにオレはスリッパを持ち、房から出て、解き放たれた開かずの間に向かっていった。

 歩いている間も、怖いとか恐ろしいとかいうより、どこまでも現実味がなく、なんだかボーっとしているような、そんな感じだった。

 処刑台に上げられるその瞬間まであらがい続けようと、声の限り叫び続けてやろうと、ここにきてからずっと何年も思っていたけれど、まったくそんな気持ちにならなかった。

 なんだか、こう、もうええわって思ってしまった。

「お母さんが来られています」

 扉を開ける前に死神が言い、扉を開けると、視線の先にはえらく小さくなってしまった母がひとりチョコンと座っていた。

 それだけで、もう涙があふれてしまいそうだったけど、ここで涙を見せてしまえば母はオレを思い出す時、いつでも泣いている姿を思い出すんじゃないかと思い、グッとこらえて我慢した。

 アクリル板のない部屋で向かい合った母は、これまで一度も瞼に溜めた涙を零すことはなかったけれど、はじめから泣いていた。

「はよ逝って。あんたが生きとったら毎日心配で心配で仕方ないから、もうはよ逝って」

 母の涙は止まらなかった。

「うん、わかってる。今までほんま迷惑ばっかり」

 言葉が詰まった。無理にこれ以上喋ってしまえば、涙に変わってしまいそうだった。

「ほんまや、迷惑ばっかりやっ。

あんた産んで、ほんま迷惑ばっかりや。

迷惑ばっかり」

 母もそれ以上言葉にできず、ただただ泣き崩れていた。

 オレの人生、幸せなんてどこを探しても見つからないと思っていた。

 手に入れたそばから失ってしまうことを考えて、幸せになることにびびっていた。

 びびって、つかみかけたものを、いつもこの手で壊してしまった。

 でも、たったひとつ。

 生まれた時に、その小さな手で握りしめていた幸せだけは、最後まで失くしてしまうことなくずっと目の前にあったのだ。




 彼女の子供で本当に幸せだった。




 立ち去る時、オレの背中に向かって母は、オレの名前を叫んだ。

 オレは振り返って母を見た。

 二度と母の姿を見失わないように、もうじきその役目を終えようとしている脳裏へと焼き付けた。

「おかん。ごめんな。先に逝くわな。身体だけは大事にしてや。いってくるわなっ」

 母はオレの姿を忘れないように見つめながら、何度も何度もうなずいた。

「もう、ゆっくり休みや。もう、苦しまんでええからな。もうええからな。頑張らんでええからなっ」

 それがバカ息子に贈る最期の言葉になった。

 人生最期になる部屋には、すでに線香が焚かれていて、なんだか生きながらにして自分の葬式に迷い込んでしまったかのようだった。

 特定の宗教を信仰していなかったので、民間の篤士家たる教誨師が、黄泉の国へと旅立つオレに説経を聞かせてくれると言われたが、オレはそれを丁寧に辞退した。

 残り少なくなった時間を少しでも延ばしてしまえば、最期の最期にまた無様をさらしてしまいそうで怖かったのだ。

 ここまで来れば、もう綺麗に逝きたかった。

 所長がそれを聞き入れてくれ、厳格に満ちた声で高々に宣言した。

「では、執行します」

 両手を後ろに回し、手錠をかけられ、ロープで膝を縛りかけられた時、執行官に「待った」を求めた。

「目隠しすんのと、足縛んのだけは、やめてもらえませんか」

 別に大した理由はない。ただ最期の瞬間を迎えるその時まで、自分の二本の足で歩き、自分の生まれ育ってきたこの世界をしっかりと目に焼き付けてから逝きたかった。

 執行官は一瞬躊躇した後、戸惑う視線を所長へと向けた。

 所長は「構わない」というように深くうなずいてくれた。

 ハルクとスタローンに挟まれるような格好で、おれは処刑台へと向かった。

 一歩一歩、自分の足で、この世に最期の足跡を刻みつけながら、十三階段となる処刑台までの道程をあがっていった。