>  > 山口組実録シリーズ 「菱の血判」その26 ~中間管理職不要論~
日本の裏社会で今、なにが起ころうとしているのか?

山口組実録シリーズ 「菱の血判」その26 ~中間管理職不要論~

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 創立100周年目の山口組に起きた「別れ」という離脱分裂劇。マスコミ等では分裂理由を、主に会費の高騰、と紹介しているが、血で血を洗いながら100年間も続いた組織の分裂理由はそんな単純なものではない。
「11年前に戻っただけや」
 分裂理由の真相を知る幹部たちは残念顔でこう言った。山口組は11年前から神戸一派と名古屋一派との間で確執が生じていた。脈々と沸々と続いていたものがこの度遂に分裂というかたちで表面化したのである。六代目山口組の分裂劇とは一体何なのか? 山口組に詳しい藤原良氏に解説してもらった。


キーマンは直系組長50余人


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写真はイメージです

 分裂騒動勃発から約3か月が過ぎた。この間、六代目山口組は多くの組員を失った。現在の直系団体の中には、ほとんどの組員が神戸山口組へ移籍、または、脱退によって、組長と運転手くらいしか残っていない組がいくつもある。そういった団体は、近隣の直系団体から組員を派遣してもらい、なんとか事務所当番を回している。

 移籍や脱退をした六代目山口組の元組員たちには、山口組六代目組長と会ったことがない者たちも当然いる。本家にガレージ当番で入ったことがあっても、六代目組長や、現在は収監中の六代目若頭が近くを通ったときには顔を伏せ、決して目を合わさないように厳命されていた彼らである。六代目組長や執行部には敬意も思い入れも親近感も持ちにくいのはやむを得ない。

 そんな彼らにとって、直接面識があり、縁もあるのは、自らの親分(直系組長)である。つまり、移籍や脱退をした元組員たちの直接的な不満の対象は、山口組六代目というよりも、自らの親分に向けられているのだ。

 今月上旬の11月5日に、山口組総本部(神戸)で開かれた六代目山口組定例会の席上で配布されたという「山口組新報」(第8号)には統括委員長の手記が掲載されており、そこには「若者に責任はない」「山菱の下、我々は一つの家族だ」「大きな懐を開けて待っている」という文字があったという。おもに神戸山口組の組員に向けた、若者に罪はないので六代目山口組に戻るなら歓迎するといった意味の言葉であろう。寛大と言えば寛大だが、今まで、会ったこともない人からのメッセージがどれだけ若者の心中に届くというのだろうか

 同様のことは、六代目山口組の各組から移籍や脱退をした元組員たちにも言える。彼らは、山口組六代目に対してというよりは、自らが直接的に結縁していた直系組長のやり方に対して、方向性の違いや食い違いを感じて、組を去ったのである。その意味では、この統括委員長の若者への呼びかけは、ややピントを外しているように思えてならない。

 それとはまったく逆に、「六代目のやり方にはついてはいけないが、自分の親分(直系組長)にはついていきたいので、このままここにいる」という組員も少なからずいることだろう。つまり、直系団体における組員の離脱は、直系組長自身の問題として考えるべき事柄なのである。直系組長が「どれだけ子分たちに離縁されても、六代目についていく」というのならばそれまでの話だが、自らがトップである「組」の「長」であるならば、子分の言い分を聞き入れるぐらいの懐の深さがあってもいいのではないだろうか。

「親分が白と言ったら、黒いカラスも白である」というのがヤクザの世界である、というかもしれないが、そもそも山口組には昔から"札入れ"というシステムを、上は本家から下は末端の組にいたるまで採用してきたという歴史がある。札入れとは、至極簡潔に言えば、多数決による決定方法である。組内の過半数の組員たちが挙手をした場合、それを組全体の意志とするというやり方である。すべてを親分が独断的に決めるわけではなく、ときには民主的な手続きで組の意志を決定することがある、ということだ。

 六代目山口組直系団体において、所属する組員たちの過半数以上が神戸山口組への移籍を希望する手を挙げているのにもかかわらず、それを無視して六代目山口組内に残留し続ける直系組長は、組を束ねる長としての判断よりも個人的な判断のほうを優先していると指弾されても仕方ない。半数以上の組員の意向を検討することなく、組長として、個人の考え方を優先すれば、組員たちの離散につながることぐらいたやすく予期できたはずである。

 その結果、六代目山口組に残留したいくつかの直系団体では、所属する組員にそっぽを向かれ、その大半が離脱してしまうという状況を招いてしまった。

 直系組長とは、「組長であり親分」であるが、同時に「山口組六代目の子分」でもあるというダブルスタンダード的なポジションである。親分でありながら子分であり、子分でありながら親分であるという二重人格的な性格を必然的に帯びている。親分である六代目山口組組長と自分の子分との間で板挟み状態になってしまう時もあるかも知れず、非常にバランスの取り辛い立場でもある。そういう時は、今一度、自分自身が「組長」なのか「組員」なのかハッキリさせる必要があるのではないだろうか。

 組長としての判断を優先するべきか、それとも組員としての行動を第一とするべきなのか。それは決して簡単なことではないが、今がその決断の時期だと言っても過言ではないだろう。そうでなければ、今後も離脱は続くだけだ。

 そもそも六代目山口組内では、各直系組長に対して、ヒラの組員扱いしかしない面が多いと言われる(編集部注 六代目山口組体制では、新しい直系組長は直系昇格後の最初の1ヶ月、総本部に毎日詰め、執行部や幹部たちから苗字で呼び捨てにされて小間使いなどを命じられる、という評判の悪い慣習があったと言われている)。だが、彼ら直系組長が、末端の組員から支持された組長であることに間違いはない。国会議員がそれぞれの選挙区や後援団体の意見を代弁して国会で論議するの同様に、長としての各組の考えや方針なりを六代目山口組内で話すことはごく自然なことでもある。先の定例会で「若者に罪はない」という若者を重視するメッセージを発したのは、もとをたどっていけば山口組六代目組長自身であろう。であるならば、その若者たちのために、若者と日頃から接する機会の多い直系組長が発言することは道理にかなっているといえるのではないか。

 もちろん、直系組長は六代目山口組組長の子分である、という考え方も正しい。直系組長がそれぞれの組内で、六代目山口組組長の子分としての考え方と行動を徹底することも、また、道理にかなっているのかも知れない。いずれにせよハッキリしているのは、中間管理職的な立場で安逸をむさぼっていればよかった時代は過ぎてしまった、ということだ。直系組長たちは、自らのヤクザ観と照らし合わせて、必ずやどちらかの道を選ばなければならない。そして、そのどちらを選んでも、平坦な道のりではない。

「ケンカには負けたが、勝負には勝った」という考え方がある。ケンカにただ勝つことよりも、ケンカの過程で何を言い、どんな行動をしたかが重要視され、また後世にもその名を語り継がれる。ケンカ相手の身体をより多く傷つけたほうが勝者ではなく、身体をボロボロにされたとしても、言うべきことをいい、やるべきことをやった者が真の勝者である。「殺されてしまえば負けたも同じ」と言う人もいるが、大義ある死者が真の勝者であることは世界中の歴史が証明している。ケンカをとるか、はたまた勝負をとるのか。先手必勝か、それとも肉を斬らせて骨を断つのか。日本中のヤクザや海外の裏社会が注目するのは、大規模抗争よりも、こういった抜き差しならない状況における人間の所作、各直系組長たちの実践力の有無なのである。


(取材/文 藤原良)