その女が注射器を捨てるまで 第42話

第二章㉒ 発狂

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「あたしシャブ中でした」
元覚醒剤常習犯、阿佐見玲子。
厳格な家庭に育ち、息の詰まる毎日だった少女時代。
そして男と出会いようやく幸せの糸口を掴んだかにみえたとき、魔物が心の隙に忍び込んだ。
ひとときの痛みから逃れるために手を出してしまった覚せい剤。
そこから運命の歯車は狂っていくのだった。
この物語は、そんな彼女の転落と再生の軌跡をたどった実話である。(取材/文 石原行雄)


狂気のミツオ、帰還

「おいミツオ! おめぇ、その包丁どうするつもりだ?」

 久間木の怒鳴り声に、別の怒鳴り声が被った。

「うるせぇ! それよりレイ子をどこに隠した? レイ子を出せ!」

 ミツオが戻ってきたの? 

 包丁を持ってるの?

 シャブと疲労で意識がはっきりしなくて、どこか夢の中のできごとのような、他人事のようなつもりで聞いていた。

「レイ子を探してどうするつもりだ!」

「うるせぇ!」

「その包丁でレイ子を殺ろうってのか?」

「違うわい! バカタレ! レイ子を助けるんだ!」

「助けるって、じゃあその包丁なんなんだ!?」

「シャブから救ってやるんだよ! レイ子の血はシャブで汚れてるんだ! 血をぜんぶ抜いてキレイにしてやらないと死んじまうんだよ!」

 ミツオ、なに言ってるの?

「俺がレイ子を治してやるんだ!」

 発狂というのは、こういう状態を指すのだろうか。

 そのうちバタバタと足音がしたかと思うと、怒鳴り合う声が遠ざかった。遠くでなにかがぶつかり合う柔らかい音や金属音がしばらく続いて、そのあとで怒鳴り声が再開した。よく聞こえなかったので、あたしは深く考えず、きしむ体を引きずって、玄関を開けて、外に出た。

テレビドラマを見ているかのように

 争う一団は、寝起きしている建物の横に広がる資材置き場の前にいた。

 四、五人の男たちが歪な輪を作り、その真ん中に一人の男がいた。

 真ん中の男がミツオ。

 威嚇するカニのように両腕を大きく広げて、がに股でクルクルと小刻みに回転しながら、神経質そうにキョトキョトと首を左右に振っていた。

 右手には包丁を握っていた。

 ときおり意味のわからない大声を上げるミツオを、取り囲むのは飯場の男たち。

 久間木もいた。

 男たちは資材置き場の鉄パイプとか角材とかを持っていて、ミツオが動いて輪を破ろうとすると、容赦なく高い位置から振り下ろした。

 パイプや棒がミツオに当たると、そのたびに「ボスン、ボスン」という音が、離れたあたしの耳にも届いた。

 叩かれるとミツオは無闇にぐるぐると包丁を振り回し、取り囲む男たちを蹴散らした。

 すごい、すごい!

 あたしは映画かテレビドラマでも見ている気分で、その光景を眺めていた。

 そこにミツオが叫んだ。

「出てこいよ、シャブ中オンナ!」

 作戦変更? 

 叩かれていたミツオは、取り囲む男たちにではなく、空に向かって大声を張り上げはじめた。

「この浮気女のシャブ中オンナ!」

 そして、ひときわ大きな声で続けた。

「近隣住民のみなさーん! この飯場にはシャブ中が住んでますよー!」

 ジャガイモのように歪に膨れ上がった顔で、ミツオが叫ぶ。

「気をつけてくださーい! シャブ中のいる飯場ですよー!」

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もうここにも居られなくなるだろう...(この写真はイメージです)


(つづく)


取材/文=石原行雄
闇フーゾクや麻薬密造現場から、北朝鮮やイラクまで、国内外数々のヤバい現場に潜入取材を敢行。
著書に『ヤバい現場に取材に行ってきた!』、『アウトローたちの履歴書』、『客には絶対聞かせられない キャバクラ経営者のぶっちゃけ話』など。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/ishihara-yukio/