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工藤明男コラム

東山紀之が"反ヘイト本"?

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東山紀之の自伝エッセイ『カワサキ・キッド』(朝日新聞出版、2010年刊)

東山紀之が"反ヘイト本"を出版していた!自らのルーツと在日韓国人への思いを告白

 素晴らしい書評であり記事でした。
 記事中から東山さんの著書からの引用を紹介させて頂く。これを読むと東山紀之がいかにしてできたか、そのルーツを知ると同時に何か熱い人生観のようなものが伝わってくる。とても意外な印象でした。

 「僕の一家は、川崎駅近く、ソープランドが密集する界隈の、父方の祖父母の家で暮らしていた。」

 「祖父はロシア人の血を引いていた。大酒飲みで、昼間、理容師の母が仕事に出ている間に、酔っぱらって暴れ、ポットをひっくり返して、熱湯が僕の足にかかったのだ」

 「僕たちの住む地域には在日韓国・朝鮮人の人々が多く暮らしていた。うちのアパートもそんなコリアン・タウンの一角にあった。 近所には、日本名を名乗り、焼き肉屋を営む朝鮮人母子が暮らしており、僕より二つ上のおにいちゃんがいた。」

 「僕と妹が毎日、お宅にあがり込むと、おばちゃんはいつも店の豚足を食べさせてくれる。僕たちはそれにかぶりついた。貧しくてお腹をすかせていた僕たちは、あのころ、あの方々がいなかったら、どうなっていただろうと思う」

 「あのころ、桜本の在日の人々のほとんどが、本名を名乗れない状況にあった。地元の小中学校の近くに朝鮮学校があったが、日本人の子どもの間では、『朝校の生徒に会ったら鼻に割り箸を突っ込まれるから気をつけろ』などというデマが流れていたりした。僕は『そんなことないのに!』ともどかしくてならなかった」

 「日本のスポーツ界にも多くの外国人の血が流れている。芸能界でもさまざまなルーツの人々が活躍している。それでこそ豊かな文化が花開くのだと思う」「国籍の問題で国体に出られなかったことに黙って耐えたと知ったときはジーンときた」

 「奴隷として鎖に繋がれてアフリカから連れて来られた人々は、運動不足にならないよう足踏みをさせられた。そこでリズムを刻むのが彼らの唯一の自己表現だった。生き残った人々は道端に落ちていた王冠(栓)を足につけ、リズムを刻んで遊び、ささやかな楽しみにしたという。それがタップ(英語で"栓"の意味)の始まりと言われている。タップダンスとは、虐げられた人々の発散であり、魂の叫びだったのだ」

 「僕は韓国人の被爆者の人生に関心がある。差別のなかで、さらにまた差別を受けた人々はどんな人生をどんな人生観で生きたのだろう。演じることが許されるなら、その人生を演じてみたい。伝える必要があると思うからだ」

 「この街に戦前、朝鮮半島から来た人々が多く働いていたのも日本の重工業を基底で担っていたからだ。僕が幼いころは『ヨイトマケの唄』のように『エンヤコーラ』の掛け声に合わせて、泥の中でランニング姿で滑車の網を引いたり、ツルハシをかざしている人たちの光景をあちこちで目にした」

 「幼いころ、僕は在日の『シュウちゃん』の家に、毎日遊びに行っていた。焼き肉店をやっていたおばちゃんは、豚足とトック(おもち)をいっぱい出してくれた。いつもすきっ腹だった僕は、蒸した豚足に赤いコチジャン(唐辛子味噌)をつけてむしゃむしゃ食べた。温かいトックのうまかったこと!」

 「自分たちも貧しかったけれど、さらに貧しい人々を支えなければいけないという気持ちを大人も子どもも持っていたと思う」

僕は東山紀之さんと面識もないが、ハワイに住んでいる時に行きつけのご飯屋さんでよく見かけた。おそらくスタッフの方々と一緒だったのだろうが、とても感じの良い方と言う印象だ。この記事を読んで、あの感じの良さは苦労人から成功した方ににじみ出る慈しみのようなものではないかと勝手に想像する。

彼の魅力的な影はそんなところから表れているのかもしれない。
在日や差別問題に対する関心は僕にも共感するものがある。
僕も自分のルーツに対して興味を持って在日関連の本を読み漁った頃がある。ちょうど18歳で特別少年院に収容されていた時期だ。自分の中にある内なる母というものを理解するためにだったと思う。

改めて東山紀之さんのファンになった。